愛という言葉の質量

愛という言葉の質量

最初に書いておく、
出産は自宅でお産婆さんが基本にあるべきで、
死ぬときゃ自宅で死ぬべきで、
葬式も自宅であげるべきだ。

それができない社会は既に歪んでいる。

と個人的には思う。

病院以外で出生した子がいない日本ではその内、独裁が病院での出生時にナンバーチップを皮下に埋め込むことを義務化するなんて言い出しかねない。それくらいヤバイ状況にあるが、日本人は気楽でいい。

ヤツが生まれる前日の晩に、ひとり自宅で出産に立ち会うために購入したビデオカメラを回して自己インタビュー(独白)みたいのを録画した。後で見直すと、なんとも情けない自分が映っている。男ってのは女々しいものだと知ったときだった。

病院は出産立会いOKというからソコに決めたのに、あとからつべこべいいつつ立会いをさせなかった。

 

イクメンなんて言葉がなかったころの話。

とある有名百貨店にヤツを連れ買い物にいった。
当時のカミさんはショッピングを楽しみ、俺はベビールームでママさんに囲まれていた。

ベビールームとかママさんとかいうとイイカンジに思うかもしれないが、乳臭かったりウンチ臭かったりするわけだ。

しかしそれが当たり前なのだ。

しかも男親の場合、敢えて経験として自分の子のオシメ替え乳与える以外に何ができると思うのか。
どうしてそういうほんの短い期間しかないチャンスを逃すのかと思うのだが、そういう感覚が無いと自民公明維新的になるようだ。

 

どれだけオシメ替えようと、可愛がろうと、どうしようとだ、マンコから生まれオッパイ吸って育つわけだが、それを父親ができるはずもない。
そういう当たり前を壊してきたのが、経団連とか経団連マスゴミとか自民公明維新その他なのだと気付こうね。

子を産んだ女の生理の前に男なんぞはただ ”愛” なんていう綺麗ごとを並べるくらいしかできないが、それでもそれしか言うことができないだろ?違うか?

 

 

その ”愛” という言葉に理由づけするもの、付加価値を持たせるものを宗教というが、男も女も共に持つ掛け替えのないその感情を ”カネ” に変えて私腹を肥やしてきたのが、君たちが信じているものだ。とも気付こうね。

 

 

それでも愛は無くならない、信ずるに値する。
だから、世の中を変えなきゃならないってことだ。

 

 

 

2015/09/12

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