乞う者と乞わぬ者がいる
悟る者と悟らぬ者がいる
乞う者の行為に美意識が宿る
悟る者は美の存在を悟る
限の無い永遠に連続したときの流れを悟る
答えは永遠に求め乞う行為の連続の中にある
死を悟る
そのとき花のいろは匂い立ち、散りぬるを知る
誕生日順に並べたが、彼らは私にとり魔法使いだ。
ゴッホ 1853オランダ南部のズンデルト
ピカソ 1881スペイン・マラガ
ミロ 1893スペインカタルーニャ地方
中島清之 1899京都市山科
ダリ 1904スペイン・フィゲーラス
東山魁夷 1908神奈川県横浜市
彼らは芸術家なので魔術使いというほうが感じが出るかもしれない。岡本太郎は「芸術は爆発だ」といっていたが、芸術は魔術なのである。仮に世にある悪法を魔法というならば、その悪法魔法に対抗しうるのが魔術というべきか。だがその魔術を感覚として受け取れるようになるまでには時間が掛かる。気の遠くなるようなあらゆるジャンルの数多くの芸術の、その一枚一枚と丁寧に対峙して問いかけ乞う。沢山の絵画を鑑賞するだけなら誰でもできるが、対峙して問いかけ乞うことはそうざらにできることではない。私は20年掛かっても未だそこまで届いていない。魔術を埋め込まれた絵画はそう多くない。飽きずに問いかけ乞うなら絵画自らから近づいてくる。
芸術は能書きを読んで頭で理解するものではない。身体全部の神経を開いて感じるものだから、そういう感覚を砥ぎ澄ます訓練をしなければならないが、どうすればいいのかを言葉で表すことができない。
練習すると耳を動かしたり鼻の穴を広げたりすることができるようになるが、最初はどこに力を入れていいやら力を抜いていいやらわからない。やっているといつの間にかできるようになる。そういうものなのだからそれ以上説明ができない。仕方ない。
「我思う、故に我あり」とはデカルト1596が残した命題らしいが、「無我の境地」はいつ誰がいった言葉なのだろう。私の身体全体で感ずる彼らの芸術はどちらをもってしてもしっくり説明できない。神秘主義をいえばなにやら怪しげなカルトが跋扈するし、合理主義をいえば科学者や医者が鼻をピノキオのようにして胸を張る。もし芸術家が権力欲や支配欲を持ったら、その途端に魔術効果は消えてしまうだろう。だから権力者や支配者が一番恐れるのが芸術なのである。権力者や支配者には理解できないのが芸術なのだ。支配欲と金銭欲を具現化したデザインがTV新聞ネットや街角に氾濫する現代の広告であり消費物なのである。芸術とはそういうものではない。
優れた芸術はその空間を魔法色に染めてしまう。それはある意味空間を支配してしまうことだが、限られた空間支配以上の力は持っていない。
絵は食えないから観ても腹の足しにはならないが、人間の根源的な部分を刺激して魂を蘇らせるような働きがある。病院でカンフル剤を打つよりも強力な作用を心にもたらしてくれるのだ。そしてセンス(感覚)ははじめから備わっているのではなく鍛えるものだから、芸術に垣根を持つのは良くない。芸術に敷居はない。
そういうものを感じるためにできることを私は惜しまない。
明治以降の日本画と西洋画はそれぞれ私の身体の違う部分を刺激する。その違いが何なのか、それを理解できるまでにまだ時間が掛かりそうだ。もしも言葉でそれを書けるようになったなら、またここに描くことにしようと思う。
能書きの見破り方 画像の見方 ①