2024 0327
都会の田舎者
先日電車に乗っていると、ドア上部のデジタル移動文字版に電子文字が流れた。人身事故により上下線ともダイヤの乱れ・・・。
数年前に横浜から都内への路線がそれまでの終点駅より先の路線と直通運転されるようになり、宙づり広告曰く「とても便利!」というのだが、果たしてそうだろうか。
横浜から見て都内のそれまでの終点駅より向こうへの移動、あるいはその逆の移動が直通化することで、向こう側で起きた故障や事故でもこちら側に影響を及ぼすようになった。路線が継ながる以前は向こう側で起きた故障・事故の影響はこちらにはなく、その逆の場合も事故や故障が起きた路線内で影響はとどまっていた。
一本の電車の遅れが何十万人もしかしたら何百万人もの人々に影響を及ぼす。これが都市化(過密化)ということだ。そしてこれは過密都会に居住する者が最低限知っているべきことだろう。
人様に迷惑をなるべくかけないということが、地方と都市部ではこの点、大差あるということだろう。
そのことを知らず考えない者を都会の田舎者とここでは呼ぶことにしよう。
山手の丘から下ったところに信号がある。そのバスはこれから信号を右折してその坂を昇って行こうとしている。下り車線の停止線を大幅に超えて信号待ちしている一台の乗用車のためにバスは曲がれない。乗用車は慌ててバックしたが、もし後続車がぴったりくっついて停まっていたらどうなっただろう。影響はバスの乗客だけにとどまらない。少数だからいいということにはならない。そういう想像力が働かず思考も及ばない者を、都会でマイカーに乗る田舎者と呼んでみようか。
たったひとりの心無い者の行為が計り知れない悪影響を及ぼしているが、悪影響を日々受けている人びとが自分のこととして受け取ろうとしない。自分の足もとにある問題として見ていない。スマホを四六時中覗いてばかりいて現実を見て考えていない。
自分たちの足もとのことにさへ無関心な人の、人口に占める割合が多くなると「法律で取り締まれ!」などと安易な発想をする人も多い。人々の現実への無関心が大きく多くなればなるほど、法律を作っても無駄になる。そしてそれは逆に、個人の自由が全て法律文・条例文によって規定・限定されてしまうことを意味する。
皆が最低限の社会的マナーを守ることができれば、いまある法律は実は半分くらいでいいのではないかと思う。タバコポイ捨て条例ができて数十年経つが、道路には相変わらずタバコの吸い殻が沢山落ちている。ついでに無責任な飼い主の犬の糞も沢山落ちている。湿度の高い日には犬の小便の臭いがむっとするほど漂っている。バスの車内にはたったひとりのつけたドキツイ香水がよどんでいる。
犬も猫も小鳥たちも「間」を持っている。間合いを持っている。都会の満員電車や満員バスにそんなものはない。都会の人間同士が互いの間合いを取る自由は、もう既に許されていないのが現実だ。許していない相手はいったい誰なのか。「間・間合い」の自由は、コロナのときだけ2mということだ。貧乏くさい国だこと。
えーい!何でもかんでも法律で決めてしまえ。というのが大衆迎合(ポピュリズム)政治の悪しき面だ。人々はそのことで結果として自由を奪われていく。いま生まれた子どもたちは、この自由が既に奪われた状態を自由と思い込んで育つことだろう。そしてまた社会は劣化していく。ポピュリズム(情報洗脳プロパガンダ大手TV新聞スマホ報道・大手広告情報)既得権政治バンザーイである。