うつ病のひとと、そうでないひと
10日くらい前に風邪をひいて咳がとまらなかった。それから段々朝起きるのが辛くなって、咳は出ないが今日は布団から出たのが午後2時だった。
今この時間でも頭がボーっとしていて、起きてから何をしていたのか思い出す気力もない。それでも人間、腹だけは減るもので、しかたなくパスタを茹でた。
深鍋にたっぷりのお湯、沸くまでの間にパスタをはかりに掛ける。二人分。なぜって?水とガスの節約かな。
フライパンを火に掛け、煙が出るまでよく焼き、そこにオリーブオイルを多めにひく。
フライパンにのせた挽肉の塊をヘラで素早くつぶし、半生程度で缶詰のミートソースをザックリ加える。挽肉にからめたソース全体が温まる程度で一旦火を落とす。
そういえば、さっき煎れたコーヒーを温めておかなくちゃ。コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
アルコールは何にしようかと、家にあるものを思い浮かべる。日本酒、ビール・・・ワインがあった。ワイングラスに赤を注ぎ、それを舐めながら、お湯が沸くのをじっと待つ。
茹で上がったときにつかうザルが必要だ。流しにザルを用意する。それからパスタを盛る皿やフォーク、粉チーズ、タバスコを用意して、パスタが茹で上がったと同時に一連の流れで熱々が口に入るように。
深鍋のふたがチリチリと合図する。塩を一掴み投げ入れ、すかさず計量しておいたパスタを入れると砂時計をセットする。
180秒分の砂が音もなく規則的に落下する。
ここから「いただきます」まで約540秒のカウントダウン。
完成したミートソーススパゲティがテーブルに置かれるところからイメージを逆回転する。足りないものはないか、段取りはこれでいいのか。不足があればここで用意しなければ、最終チェック。しくじれば全ての流れが台無し。納得のいく味にはありつけない。
砂時計の最初のターン。残り360秒
本当にこれでいいのか。流れ落ちる砂を意識しながらもう一度イメージする。その間火力の調節を怠ることはできない。
「いただきます」から逆算して。今からの本来時系列の流れでも。
よしこれでいい。
砂時計最後のターン。残り180秒
ここでテーブル脇の間接照明点灯。一番明るい光度までスイッチを回す。
大詰め。
パスタを一本トングでつまみ、今度は硬度を試してみる。やはりまだ硬い芯が歯に絡む。俺の好きなアルデンテまでにはあと少し。
ここから砂時計は必要ない。
再度火力の調節。
もう一度パスタを一本噛んでみる。
あとは自分の感で数十秒待つ。
ソースのフライパンに弱火をつけ、パスタ鍋の火を落とし中身をザルに。湯を切り食べる分量のパスタを皿に盛る。
ザルに残ったパスタにオリーブオイルをふり掛け、ザルを振ってなじませる。
フライパンのソースがじわじわと騒ぎ出す。
ザルを受け皿ごと冷蔵庫へ。
きびすを返そうとして、足元にまとわりつくやんちゃ猫のミケが。彼女を蹴飛ばさないようにソースの相手をする。
ひき肉の赤味はソースが狂って踊りだせば全ての色が変わっている。
蛍光灯の光を反射して白い粒子が立ちのぼる。麦色パスタが濃いトマト色に染まる。
気がつくと俺はコーヒーを飲んでいた。
ワインボトルの界面が数センチ下がっていて、大皿の上ではフォークが満足気に横になっていた。
料理のときは料理のことだけ考えればいい。だから夢中になれるのだ。そこには腹をすかせた自分以外なにもない。喜びや悲しみといった感情は存在しない。それ以外のなにかを考えれば、味は不純となってしまうしなにより自分が納得できない。
料理が複雑になればなるほど、作った料理を食べる人が多ければ多いほど、それに比例した充実感を味わえる。料理人ってきっと幸せな職業だ。俺はそう思う。
今日の反省。
ソースには玉ねぎのみじん切りを加えワインで炒めるべきだった。(缶詰だって少し手を加えれば、驚くほど美味しくなる)
脳みそにようやく栄養が行き届いたところでこれを書いている。
15年くらい前からうつ病と診断され、今現在は躁うつ病といわれている。1年ほど前に俺はうつ病を克服したと書いた。けれどそれは違ったようだ。
たった今、この瞬間を生きようとすること。
夢中になって「今」を生きることこそが、本来の「自分」なのであって、後先をマイナスのイメージばかりで考えて、自分自身でいることを忘れてしまうのはよくない。
その原因は、実は情報過多なのだろう。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌全て俺たちの知らない遠くからやってきて、必死になにかを伝えたがっている。それらの情報の殆んどは、俺たちの価値観を変え得るための根拠はなにも存在しない。だってそうだろ、選んで決めるのは俺たちでしょ。
誰だって何かしらコンプレックスを持っている。もっと鼻が高ければ、シミだのソバカスだのシワだのが消えたら、身長が低いとか異性にモテないとか友達は持っているのに俺は持ってないとか、太ってるやら痩せているやらアーデモナイコーデモナイと。
でもね、よく考えてみて欲しい。
これまでずっと、昔奴隷だったからとか肌の色が黒いからとか、そういうイワレノナイ差別を受けてきた人達が確かにいて、でも黒い肌でも大統領になれるって時代にそんなことでなぜ悩むのかと考えると、そういうイワレノナイ価値観を垂れ流しているなにかに行き当たるわけだ。
分かったかい?そうだよ、その代表がTVコマーシャルと呼ばれるものだ。
分かりやすいのが化粧品のコマーシャル。
冷静に見てたら、「あんたたちは地黒だしシワシワだしソバカスだし、それはイケナイコトです。だから今すぐこの化粧品を買いましょう」って暗に言ってるわけだ。
「自分のままでいてはダメ、我が化粧品会社はあなたの肌、あなた自身を否定します。」って言ってるわけよ。
民間放送の場合、全ての番組、ニュースですらスポンサーCMのオマケだということに早く気づくべきなんだ。テレビもラジオも、放送に限らず新聞雑誌それらの情報媒体全てがそうなんだ。広告収入によって成り立っているんだから。
そんな情報に「本当の力」「本当の価値観」なんて存在するわけがない。
そういうふうに見聞きすると殆んどの情報が俺たちを否定し、くだらない価値観に引きずり込もうとしている。
だからそんなものに左右されることはない。信じてはいけない。自分のままでいればいい。そのまま、ありのままの自分を信じること「自信」を持つことが大切なんだ。
俺たちはみんな「人生という限られた時間」を持っているけれど、「限られた時間」を根拠のない情報に惑わされるなんて馬鹿げている。
情報は確かに大切だ。但し、自分にとって有要なものならばという前提だ。
そもそも「うつ」って得体の知れない不安感の継続だ。
たとえば、家族がいつもなら帰ってくる時間に帰ってこない。いつまで待っても帰らない。そんなときの胸騒ぎに似ている。けれどその胸騒ぎの原因がなにもない。 会社に行きたくないわけじゃないけれど、人と接することが嫌。別に上司や同僚が嫌いなわけでもない。
そんな自分を納得させるために、きちんと朝起きて会社に行く。駅まで、会社の前まで行って帰ってきたことが何度もある。本当に馬鹿げてる。そう思わないか、みんなもそう感じないか?
普通のひとと、うつ病のひととの違いは、つらい精神状態がある一定の時間内で収まるか、それ以上続くかという定義。問題は継続時間だ。
精神状態としては「同じ」。
だから俺は躁うつと病院の先生に言われても驚かなかったし、別にどうってことはなかった。間違っていたというのはそういう意味。時間的に、これ以上続くと病気ですってことでしかない。
でも、誰だってうつ病だといわれたらそう思い込んじゃうでしょ。そうか俺は病気なんだ、うつ病なんだって。思い込むと、そこからはもういろんな症状を併発する。「病は気から」って感覚は東洋人にしかわからないのかな?
頭が痛い、吐き気がする、異常に肩が凝る、眠剤飲んでも眠れない。誰だって頭が痛くなるし吐き気がすることもあるし眠れないことだってあるのに、自分はうつ病だからって思い込みから、悪く悪く考えてしまう。
それで24時間垂れ流される情報に浸かりっぱなしで離れられない。でもその情報の殆んどが「不安を煽る」ことを目的としている。見聞きする者を否定している。
不安を煽ることで金が動きそれが経済を活性することだと、はばかりなく、恥ずかしげもなく、致命的な勘違いをしている今のマスコミ。
悲しいかなみなそれを信じてしまう。
眠れぬ日が続き、気持ちは沈み、今度はどっぷりと薬に漬かってしまう。
悪循環。
お勧めしたい、テレビもラジオも何もかも「くだらない情報断ち」をやってみるといい。電源をしばらくOFFにしてみるといい。
そして本来自分が好きだったことを思い出そう。なにかに夢中になっていたときのことを思い出してみよう。
ファッションだのブランドだのナンダノカンダノ金儲けだの。そんなことでは無いはず。
もっと基本的なこと。歌ったり、踊ったり、絵を描いたり、スポーツだったり。カネ使わずに体ひとつでできることだ。俺の場合は作文だけど。電子ゲームなんてクソだ。
電源OFFをにしてそういう自分に「夢中」になってみたらいい。
「我が強い」ってよくいうけれど我を忘れて何かに「夢中」になることこそが、本来の「自分」に近づくことだと、そう思うんだけど。
2018 よりもっと前の12/18 18:29
1件のコメント
jan
2024年1月8日 2:35 PM
視覚的カットを増やす。緩急をつける。
後半部分を混ぜ込む