「熟成時間」というタイトルをつけたのだが、ワードプレスはみんな知ってるように使いづらく面倒くさく作ってあるサイト作成ソフトだ。
「熟成時間」を自動翻訳したら「aging time」と表題の二種類出てきた。
Maturationは成熟という意味らしく、熟成とは少し違う。
Agingは成熟と老化という意味があるらしい。アンチエイジングと言われる日本の女性用カタカナ言葉は微妙な感じがする。
前回「700seven hundred700」という記事を書いたときに同時に2007年2月3日に書いた詩「lunatic」を今回、記事一覧のTOP表示で自己紹介した。
「lunatic」では、ビッグバンにつて触れている。世界的に有名な科学者であり、第二次大戦のときにナチス・ドイツでの原爆製造がらみでアメリカに亡命したユダヤ人物理科学者の中の一人でもあるアインシュタイン。しかし彼の亡命先アメリカで彼の友人らにより開発された原爆を製造し、広島・長崎にそれぞれ異なるタイプの原爆が実践と実験と周辺国への威嚇も含め落とされた。リトルボーイとファットマンというのが爆弾につけられた名前だ。そのときのアメリカ大統領はトルーマン。
あとから考えると、「lunatic」ではアインシュタイン相対性理論などの科学者に対し”疑義”を呈していたことになる。そしてその発想の原点がキリスト教の「特異点(一神・個人崇拝・ユニコーンなど)」にあると直感し、そのことが書いたときに既に俺の意識下にあったということだろう。けれど、同時に「無」は何もないことを意味する言葉のはずなのに「無」が存在するという考え方は何事か?という問いを仏教思想にも投げつけた。戦争が地球上からなくならない理由は何かという問いに対する自問自答の詩でもあった。
だってわからないんだものね。
宣教師も学ばない、パパもシスターも学ばず、坊主も尼も学ばない。そして膨張するだけの資本主義を考案したのは宮廷ユダヤ人で、ヒトラーやそれ以前からヨーロッパで人種差別されてきたユダヤ人だけが世界に情報として流布されてこれまできたが、実は特権階級として極一部のユダヤ人が敵対する双方にカネを貸し、世界の政治を操ってきた。というのが私の妄想だった。
でもそれが正しいのではないの?という証拠が数々発見されてきている。もともとそういう情報はあったのだが、人ひとりが受け取る情報には限りがあるから、たどり着いたことはとても幸運だとそう思う。そして権力(既得権という何もしなくても富が腐った社会から無条件で与えられるシステムの権力)を握っているの中枢に一部の特権ユダヤ人鎮座ましているということを突き止めたというわけだ。
そういう意味で「lunatic」を書いてから18年あまり立った今、あのとき呈したその疑義が尚発展し続けているという自負を俺は持っている。熟成させるということでもあるように思う。
この熟成にとりどうしても掛かる時間(期間)があるが、その時間を端折り、量だけ確保するという考え方を新自由主義(英語ではネオリベラリズム)という。すべてが劣化して品質が低下したのを情報宣伝で誤魔化し続けている。騙しの資本主義と命名を改めるべきだろうと皮肉を込めてここでは書いて置くことにする。
このことは実は洋の東西を問わず世界中で進行している大問題なのだ。
草食動物である牛に成長ホルモン剤を投与して、早期に成長させ出荷するとか、遺伝子組み換えにより手間を省いた農産物だとか、船積みして輸出するときに防腐剤(防かび剤)を塗布して相手(他国の消費者)の生命を無視したオレンジ・レモン・バナナ貿易とか、ほかにも調べればたくさんあると知ることがでる。そんなことがここ三十年くらいずっと続いているが、この国の公は何もしないでいる。国内規制を逆に緩めているのが現実なのだ。安全規制をキツクして生産者に当面のあいだその分の補助をするというのが本来の在り方ではないだろうか。
自動車でも、過去の話として日本の自動車が世界を席巻したのは「排ガス規制をキツクした」からです。排ガス規制をキツクしたことによって日本車は燃費性能を各段に上げました。燃費性能というのは1kmに自動車が消費する燃料をいかに減らすかということだから、当然その分有害排ガスも減少したということ。この後にハイブリッドが出て、その後電気自動車(バッテリーカー)が出ました。中国で五輪が開催されたころ開催地北京では排ガス公害が物凄く昔産業革命後のロンドンのようでした。
現在中国ではバッテリーカー(リチウム電池)が主流で、アメリカのイーロン・マスクはテスラという電気自動車企業に投資しました。
さて、果たしてバッテリーカーは省エネ・カーでしょうか。私は疑問を持っています。それはガソリンエンジンの2000cc(馬力)クラスの自動車で、リチウム電地で走るバッテリーカーの車重が1トン近く重くなりました。より重い物体を動かすにはより多くのエネルギーが必要です。このことは小学生でも高学年になれば理解できる普遍的なことです。エネルギーの種類がガソリンや軽油・重油から電気に変わったということで排ガスは出なくなったが、より多くのエネルギーを必要とするのがバッテリーカーであるということです。
それではバッテリーカーが自己充電しながら走るでしょうか。そうではありません。どこかの電気スタンドで充電しなければ走らないのがバッテリーカーです。ガソリンや軽油・重油ならガス欠になったら自分で持ってくることが可能ですが、充電は充電設備があるところまで走らない自動車を運ばなければならないのです。そうすると充電スタンドをたくさん作らなければならない。それだけではなく、そもそも充電する電気はどこでどうやって何から作っているのか。
そう考えると我々は何やら新しいものに飛びつきがちだが、実は社会的コストが膨大にかかる乗り物ではないのか?という疑問にどうしてもぶつかってしまいます。原発の発電コストは安いという大嘘をつく政府と同じく電気自動車も実は社会的コストが高くつくのではないのか。排ガスは消えたが発電による環境破壊はどうなのかなど、そういったことは情報が伏せられている。
原発は原発を建設するところから廃炉するまでに費用がどれだけかかるのかを考えると安いエネルギー源では決してないことは既に明らかになっている。そしてガソリン自動車は排ガスを出し空気を汚すし、バッテリーカーはガソリン車よりエネルギーが多くいる、その電気を作るための発電所を増やさなければならないし、その結果トータルでどうなのか。そういう議論はなされていないか隠蔽されているということだ。
そういう意味で、専門的な詳しいことは分からないが「水素エンジン」がトータルで環境含め負担が低いのではないのか。といういまのところの私の結論だ。どうして落ち目の日本車が水素に参入したのに尻砕けなのかは、他の巨大資本に抑制されているからだと予想はつくが、それではそもそもアメリカ車メーカーがどうしてやらないのか、疑問をとおり越して世界的ミステリーだ。
この技術が普及すると産油国、産ガス国はどうなるだろうか。そこに住み生きる国民はどうなるだろうか。そこを解決しなければ如何に優れた技術も普及しないだろう。そう私は思っていて、そこが企業経営者とは違う視点なのだ。
もう一つ、日本では10万キロ走る自動車をたった1万キロしか走らずに4年ごとのモデルチェンジの度に買い替えていた「金融自動車産業時代」があったがいまや完全にそれが終焉した。そして新規購入(若者が免許を取って自動車を買う)がなくなり買い替え需要だけになった。買い替え需要もこのままでは先細りだ。トヨタやホンダ、日産マツダなどの自動車会社はいわゆるグローバル企業であり、国民からの需要が昔ほどないにもかかわらず、国から莫大な優遇措置を受けた国策企業でもある。そして国民住民に費やされるべき予算を食い散らかし、雇用という人質をとりながら安価な労働によりなりたっている。国民の需要というのは国民から見たその企業の必要性にほかならない。つまり国民にとっては昔ほど自動車企業は必要ではなくなった時代だろう。そしてそこから自動車企業はどこへ向かうのかということだ。彼らは日本の農林水産業全般を犠牲にして成り立ってきているという事実もある。私は大いなる愛憎感情の両方を込めて彼らを観察している。政府は対アメリカ外交というと必ず農林水産業や国民一般消費者を犠牲に自動車産業の保護を図ってきたが、保護されながら衰退しているのが現状だろう。