Club jannmu

畳に落ちた飯粒をなぜ、拾って食わせるのか?

2008/02/24
畳に落ちた飯粒をなぜ、拾って食わせるのか?

俺が二十歳少し前の頃、六本木のあるディスコに毎日のように入り浸っていた。そこはチャクラスマンダラというスクエアビルのチープなディスコ。
 ショータイムが毎日あって、フィリピンのバクラが煌びやかな衣装を纏い踊っていた。通っていくうち友達になり、ある日店がはねてからそいつらの寮に行くことになった。
 待ち合わせ場所で友人と二人で待っていると、5、6人のさっきは一目惚れしてしまいそうだったそのショーダンサーたちはみな、メイクを落として薄っすらと不精髭が伸びていた。それでも自分のお目当ての?と肩を並べて歩いていった。
 着いたのは、普通の木造一軒家。バクラたちは土足のままずかずかと畳の部屋に入っていき、そこには足の踏み場もないほどに万年布団が敷いてあった。まさしくここはタコ部屋だ。
 俺の?と布団を共にして寝ることになるのだが、それはいろんな意味で朝まで一睡もできなかったのを覚えている。
 本題に入ると、答えは人それぞれ、考え方は色々だろう。俺はこう思う。
 畳に落ちた飯粒を拾って食わせるのは、躾。それじゃなんのための躾なのか。
 まず、食べ物を粗末にしない、作ってくれた人たちに感謝して食べると言う意味。
 動物には食べるときの姿勢があって、うちのチビは俺におなかが減ったというときに、ある鳴き声で知せる。いつもの場所の、いつもの入れ物に、いつもの食事。
 彼女は俺に似たのかとても臆病者だ。だから自分で欲しいといったくせに、すぐには食べない。こっちが早く食べろよなんて思いながら見ていると、美味しいご馳走を目の前にしても、少しはなれたところで、鼻をくんくん、耳ぴくぴく、俺が知らん顔してそっぽを向くと、それでやっとおもむろに用心深く寄ってきて、まず匂いを嗅ぐ、うん、これはいつものだ、それからやっとむしゃむしゃガリガリ。それをそって見ていると、彼女には彼女の食べるときの姿勢がある。
 自分の気を消すって、簡単にいうとこういうことなんじゃないのかな。
 飯粒をこぼさないように食べるためには人間の姿勢がある。マナーなんか別にどうでもいいと思っている。
 畳の上は、家族やご近所さん、友人、来客、いろんな人が畳を踏む。寝そべったり時にはよだれを垂らしたり。そこに落ちた飯粒を食ったからと言って、人間死にはしない。自然と免疫力がつくんじゃないのかな。
 それと忘れちゃならないのが、子供のお腹を壊させまいとする母親の誇りだ。それが流しに貯めてあった「お茶っ葉」なんじゃないのかななんて、実際にはそんなことを誰も意識してないけれど、「姿勢」「食べ物を大事にし、感謝する」「知らないうちに免疫がつく」「母親の深い愛情」。
 躾って、なんの説明もなく知らないうちに自然と身につく、昔のひとの知恵なんじゃないかと思うんだけど。

投稿日 2008/02/24 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

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