「永年・永代権力」
ナチスドイツとイタリアファシスト政権と大日本帝国が当時軍事同盟で他の各国と戦争していたことを日本の若者(大学生でも?)は知らない。
戦争は勝っても負けても悲惨なことには変わりない。勝った国がその価値観を敗戦国に押しつけることができるとか、敗戦国から賠償金を取れるとか単にそういうことでしかなく、勝てば官軍負ければ賊軍なのだ。
しかし悲惨なことに変わりないのだから、二度とその悲惨を起こさない為に記念するべきなのだ。戦勝国では戦勝記念というが、敗戦国の日本では敗戦記念と言わず終戦記念という。ドイツやイタリアでは何と呼ぶのだろうか。もっともイタリアは敗戦という形をとっていない。(それはバチカンがあるからなのだろうか?とても不思議だ)
戦勝国も敗戦国もどの国も、自分の国に都合のいいように言葉を擦り替えたり歴史教育を歪曲させたりしている。「何処の国でも」である。
自分の国の都合のいいように解釈したい気持ちは誰にでもある。それとは別に正確に知りたいという欲望もあるし、悪く言われたくないという願望もある。
真実(なるべく真実に近い)を受け入れて排他的ナショナリズム的な(自分の気持ち)を排して考えることが後の「人類の戦争の放棄」に繋がる。
人類が暴力を忘れるとか喪失するというのは有り得ないのだから、有り得ないという前提で何故それが国同士の戦争になるのかを考えれば、それは武器・兵器産業経済が国家予算の一定割合を占めているからだし、学問が軍需産業と癒着した結果がないと戦争にならないということが大きな要素だし、人間の支配欲の集合がそうさせるということもわかる。
軍事の強いアメリカを例にとれば、国民にアメリカは神に選ばれた国、アメリカ国民は神に選ばれし者などといって排他的ナショナリズムを煽りながら軍と産業と大学などの研究機関が世界最先端を競い、それに国が予算を出し、民間企業がヘッドハンティングする。というようなことが平時の当たり前となっている。ここ日本も右に習えでそっくりになってきた。
カネと名誉と肩書(ポジション)と保身と支配欲の結合体だ。
学者もエリート官僚もそのことを疑わない。自己保身と私利私欲がそうさせるのだろう。
しかしそういう欲が無い人間も極稀にいる。そういう稀な人間の言説を潰そうと彼らはするが、それは無理というものだ。彼らは彼らのその価値観でしかそれを行えないからである。結局彼らはそういう人間から搾取するしかない。搾取と見抜かれていながら搾取するしかないのである。
結果それが明らかになったときに人間的な信頼を失うことになるのである。
彼らエリートたちは、それを誤魔化すために国内の外国人にその矛先を向けることに必死なのである。自分たちの作った制度が疲弊しているのに、そのことを認められない憐れな者たちなのである。
敗戦国であろうと戦勝国であろうと西側であろうと東側であろうと南側だろうが北側であろうとも同じなのだ。
相手や昔の相手を罵りながら、戦争した(している)自国を持ち上げるような記事を書く記者も当然同じ穴の狢。同じような価値観でしかないのだ。
人々が「お金」に第一価値観を持つ限りそれは悲しいかな変らない。
「永年・永代権力」あってはならないものだが、これはそういった人の心に潜む過剰な「金銭欲(物欲)」なのではないかと思う。