制服文化からの脱却

年の暮れになった。
個人がそれぞれこの1年の思い出を積み重ねたはずだ。

生きているから。

お隣の年配が網戸を外して洗って干していた。
年末の大掃除。これは美的感覚として、日本人が大切にしたいと思うのだ。そういう自分はさぼってしまっているんだが。

1年の計は元旦にあり。
つまり、年末の大掃除は欠かせないということだ。
以前は大掃除をしながら、ご近所が集まって御節(おせち)なんかを手作りしていたのだ。
餅つきなんかも年末にしたものだろう。

誰もが同じ考え、同じ何かをいつも共有すること。
中でも、目に見える形で共有することに、特に日本人は良くも悪くも”安堵感”を覚えるようだ。

小学校には六年間私服で通うが中学から高校までの六年間、ほとんど強制される制服はいったい誰がどういう理由でそう決めたのだろう。
子供たちを「型にハメる」ということにならないだろうか。

制服にアイロンをかけようと清潔に保とうと、そういうそもそもの意識を変えなければなんにもならない。

制服の子供たちが髪を染めたりピアスつけたり太いずぼん履いたりスカート超ミニにしたりするのは何でだろう。

型にハメられる事に対する無意識の反抗なのではないか。私も学生時代そういうことをしたが、その当時何故それをしているのか分からずにいた。先輩がそうしていてカッコイイとか精々そういう理由だった。

学校以外に個人に対し制服のような”規制”を掛けるのはなんだろうか。

大学卒業して就職活動するときにはどうしてみんな同じリクルートスーツを着ているんだろう。

学校教育によって「私は型にハメられている」という、採用アピールなんだろうか。

同じ文化を共にする、社会を構成する個人として。
個人とそれら組織とを個人的にどこで区切ることができるのだろうか。

憲法のこと
とても大切だ。

横断歩道の信号機を守るのと、交通事故から身を守るのとでは、よくよく考えるとちょっと違う。

いまこの歌を聴いている。
Let it be

日本語では「なすがままに」

個人が個人として個人の意味を自覚しないと実現しない世界だろうと思い直している。前提を考え直すということだ。

それと並行して
Imagine

 

2016-12-24 18:44:10

 

 

 

 

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