jan の断片

2024  05 12   11:20

非情について

ここ数日、初めて夏目漱石を読んでいる。

「坊ちゃん」「吾輩は猫である」そして「夢十夜」いまは「草枕」と読み続けている。

私が読み取りたいのは当時(明治時代)の人々の心象風景と実際の風景だ。こういったものは登場人物の会話や作家のト書き、行間などに隠れているものだからじっくりと読む。元々遅読なのに益々読むのが遅くなる。

 

生まれたときが悪いのか

それとも俺が悪いのか

何もしないで生きていくより

それはたやすいことだけど

これは非情のライセンスという昭和のドラマのエンディングの歌詞だ。

この頃はまだ携帯電話などなく、彼女と話すときには家の電話ではなく公衆電話を使っていた。家の固定電話でデートの約束などした場合、どういうわけかタイミング悪く親から用事をいいつかってしまったりする。とても非情な感じではあった。

””

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

「・・・

俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出ることができぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱することを知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シュレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

うれしいことに東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東離下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向こうに隣りの娘が覗いている訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、礼儀で疲れ果てた後、すべてを忘却してぐっすりと寐込むような功徳である。・・・」””

 

せっかく解脱したものを最近になってまた元に戻ってしまったんじゃないかとも思うけど、それも「とき」の非情というものなんだろうか。

長年といっても20年弱で、ストイックにチャリ漕ぎすると自然をそのまま感じることができるようになった。風をそのまま揺れる樹々をそのまま感じる。日差しに輝いて美しい。人の感情の入り込む隙間はそこには全くない。だから美しくだから非情なのだ。そしてそこから学ぶことは多い。

 

 

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2024  04 28  12:00

LOVE SEXY

コピー防止コードが埋め込まれていない頃の音楽CDアルバムが200枚くらいあって、最近それを聴きなおしている。

みんながいつも見つめているあの小さな箱で一曲毎にダウンロードして聴いているのとはちょっと違う。

以前こんな不思議なことがあった。

CDプレーヤーが、頭の一曲目しか再生してくれないという現象が起きて、なんどもセットし直したがその怪現象は改善されなかった。

そこでハタと思いついてこのCDアルバムをそのプレーヤーにセットした。

メタ・データというのだろうか、全部で9曲の音源が全てデータ的に繋がっている。音楽としてではなくデータ的に繋がっているので、ポンコツCDプレーヤーは全曲再生した。

そういう試みは知っている限りこのCDアルバムだけ。ビートルズはいろんなことを試みたけれど、これはやってないように思う。

Lovesexy

プリンスの身長・体重と同じくらいだ。
https://world-note.com/prince-height-weight/

マイケル・ジャクソンも小柄だし、省エネ・ボディということなんだろうか。

 

考えてみたらこのページはこのCDアルバム形式を模倣していることになる。

記事別になった頁は https://jannmu.com

全体として国外からのアクセスが圧倒的だし、円安なのでもう少し構成が整ったら有料化しようと思っています。

生活保護を受けながら20年くらい無料で書いてきた。無料だとなんだかモチベーションが保てないということが分かった。生活保護を脱出するという絶好の機会なのかもしれないと自分の尻を叩いてみようと思う。

 

 

2024  04 25  13:00

小倉・博多・宇部

小倉の夕食はこじんまりとした居酒屋でとった。

この時期に茗荷を食べられるというのは乙なものだ。揚げ出し豆腐や牛筋煮込みにさりげなく入っている。

料理に箸をつけながら、そういえば私が以前取材した地元の農家では、畑でわざわざ育成しているというのではなく、庭先に勝手に生えてくるという感じで驚いたのを思い出した。

美味しいものは人の心を豊かにしてくれるし、味や食材にまつわる個人的な記憶を呼び覚ましてくれるもののようだ。

いわしのぬか炊きという聞きなれない料理も食べた。小倉駅についてホテルまでを商店街を歩いたが、日曜日だというのに殆どの店のシャッターが降りている。地方の駅前商店街にはよくあることだ。ぶらぶら、きょろきょろしていると「ぬか炊き」という文字が目にとまった。そして居酒屋のメニューにもあったので思わず注文したというわけだ。

美味しかったとだけ書いておこう。

バスに乗ると「文字一丁目」というバス停がある。アナウンスは「もんじいっちょうめ」である。門司港は「もじ」と読むらしい。地名というのも面白い。埼玉県はなぜ「さいたま市」などと、仮名づかいをしたんだろうか。地名は不思議な事が多い。

不思議と言えば、「旦過市場」というのが駅前商店街の先にあって、読みは「たんが」。戦後の闇市だったものがこれまで商店街として、市場とともに続いていると地元の人から聞いた。そして火事が続いているらしいことも。開発の為の地上げで不審火が多いらしいということも。あくまで噂として。

なぜかあの商店街には特定の政党のポスターだけが貼ってある。これも不思議なことだ。

フレンチシェフに教わった「ピンクペパー」というスパイスも初めて口に入れた。

日常から数日抜け出して非日常を見聴きし味わう。そのことで日常を思い返すというのは、どうやら私の生活には必須だと改めて思う。不眠症の私が、よく眠れた数夜でもあった。

 

後ろから写した「旦過市場」

火事の跡が生々しい。

 

博物館展示「筑豊炭田」から石炭輸送

殉職者慰霊碑

炭鉱で殉職するってどういうこと?

おまけ

小倉駅前のストリップ小屋通りで撮影

まぁ、よそ者が来て何言ってやがると地元の人は思うかもしれないが、開発するにせよなんにせよ、闇市といわれる市場がどうして当時必要とされたのか。すべては戦争にその理由があるのは間違いないだろう。戦争の責任をこの国や地方は国民・住民に対して未だに取っていない。そのことを若者に伝える者もあまりいない。それを基本に考えるべきだと私は思う。

 

広寿山福聚寺という寺がある。私が訪れたときには誰もいなかった。

静まり返った広い境内に鳥たちの囀りと樹々葉擦れの音、山に掛かる霧。

横浜ではもう無理な、あるべき非日常を満喫した。

 

 

 

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2024 04 19   10:50

ヘソと耳の奥

風呂に入る前に綿棒でヘソの奥と耳の中を少し擦って臭いを嗅ぐ。その綿棒は風呂上りまで捨てずにとっておく。

風呂に入ってヘソと耳(たぶ)を安物の石鹸で洗う。新しい綿棒でヘソと耳を同じように擦って臭いを嗅ぎ比べてみる。

ちょっとでいいことが分かる。(何が?)

答えは下のリンクを読んでみてね。

 

「香害」

香りの害について、パターンを変えて書いてみた。

どちらがお気に召すかは読者しだい。どれもほんの五分くらいで読める。

 

15秒CM用

distance

 

報道用

香害110番

赤ちゃんのオシリがやばい!

次回更新は21日の21時すぎです。https://jannmu.com

 

 

 

 

信号機

2024  4/3  18:30

都内や横浜周辺の信号機が徐々に交換されて新しくなっている。新しい信号機はLED電球が使われている。街路灯などもLED照明に交換されてきている。

LED照明はこれまでの発熱電球や蛍光灯とくらべ随分と電力消費量が少なくてすむ。自宅の照明も一時期LED照明に交換した。

交換したLED電球はそれまでの電球よりもとても高価だ。しかしLED電球は長持ちするということなので、いい加減な気持ちで交換した。

路上で行われているデモンストレーションやイベントなどの中継動画に映る信号機の光は高速で点滅している。チカチカチカと高速で点いたり消えたりを繰り返している。深夜の裏通りでゆっくり点滅している信号機も、実はデジタルな目を通すと高速点滅しているんだということがわかる。

生活に使われている電気は全て?なのかほとんどが「交流」だけど、発電所で作る電気は直流なので途中で直流電気を交流電気に変換器を使って変換する必要がある。「交流」電気は僕ん家の電球とお隣の電球との明るさを同じ明るさにする電線のつなぎ方だということは、小学生のときに豆電球を使った実験で知っている。直流繋ぎは電源に近いほど明るく遠いほどくらくなる。

信号機が発電所に近い(地方)ほど明るく遠い(都市部)と暗いのでは困ってしまう。でも信号機の数は田舎と都市部で比べたらどうだろうか。ということは学校では教えてはくれなかった。

古い信号機のときに電球だけを交換しているのを見たことがない。あれ?という感じだ。

見たことがないというのは、生まれてこのかた見たことがないということで、信号機の交換は数度見たことがある。あれ?って感じだ。

高速点滅は肉眼では見えないが感じている。はっきり言うと目に悪い。なので自宅ではまた古い電球に戻した。実は古い電球も点滅しているしパソコンのモニターだって点滅している。なので紙の本を読むよりも目に悪い。蛍光灯も点滅している。でも発熱電球は点滅しない。光源が熱なので光の点滅はない。

 

ところで信号機はいつなんのために交叉点などに設置されるようになったのだろうか。小学生低学年のころに学校にお巡りさんがきて、交通安全指導というのをやった。校庭に白線で交叉点を描いてそこにミニ信号みたいなのを置いて教えてくれた。

「まず交叉点を渡るときには右を見て左を見てもう一度右を見て」車がこないか安全かを確かめてから手を挙げて横断歩道を渡りましょうと教わった。(日本の場合、自動車は左側通行だから、道路のどちら側から渡っても自動車は先に右からくる)

当時と現在では交通量が圧倒的に増えた。増えたのに肉眼(自分の目)で確かめもせずに信号機に制御されている人類はオバカになっている。右を見ても左を見ても、もう一度右を見ても自動車などこないし安全なのに信号機が赤だからという理由で青になるのを待っている、制御されたオバカなのである。

信号機が表現するのは、30秒くらいに一度ずつ、「数秒間で青から黄色へ黄色から赤へ赤から青へ」を繰り返しているだけで、安全を確かめてくれているわけではない。

私は信号機の記号論的色彩表現を守りたいのではなく、自分の身の安全を守っているだけ。身の安全でなく信号機を守る君たちは、やはりオバカであるということだ。ましてやスマホ見ながら歩いてるのは、それだけで他の歩行者に迷惑だ。自分からぶつかってきておいて文句言う人もいる。そういう人は左右はおろか信号機すら見ていない。何を見て立ち止まるかといえば他の人。他の皆さんがそうしているとその人もそうする。日本人に沁みついた全体主義の悪しき慣習だ。(いい歳こいて小学生じゃあるまいし!バカ!!!)

ブラウン管画像でもデジタル画像でも点滅に変わりはない。なので動画を観ると目が疲れる。自然を人間の目で見るのは、時間軸としてずっとつながっている画像だから目に優しいというわけだ。これがロボットにはできないこと。

 

*このサイトをご覧の方はもちろんそんなオバカではないと思いますので、「あなたに言ってる訳じゃない」ということをご考慮くださいね。

 

 

2024  0327

都会の田舎者

 

先日電車に乗っていると、ドア上部のデジタル移動文字版に電子文字が流れた。人身事故により上下線ともダイヤの乱れ・・・。

 

数年前に横浜から都内への路線がそれより先の路線と直通運転されるようになり、宙づり広告曰く「とても便利!」というのだが、果たしてそうだろうか。

横浜から見て都内のそれまでの終点駅より向こうへの移動、その逆の移動が直通化することで、向こう側で起きた故障や事故でもこちら側に影響を及ぼすようになった。路線が継ながる以前は向こう側で起きた故障・事故の影響はこちらにはなく、その逆の場合も事故や故障が起きた路線内で影響はとどまっていた。

 

一本の電車の遅れが何十万人もしかしたら何百万人もの人々に影響を及ぼす。これが都市化(過密化)ということだ。そしてその都会に居住する者が最低限知っているべきことだろう。人様に迷惑をなるべくかけないということが、地方と都市部では大差あり大いに違う。

 

そのことを知らず考えない者を都会の田舎者とここでは呼ぶことにしよう。

 

山手の丘から下ったところに信号がある。バスはこれから信号を右折してその坂を上って行こうとしている。下り車線の停止線を大幅に超えて信号待ちしている一台の乗用車のためにバスが曲がれない。乗用車は慌ててバックしたが、もし後続車がぴったりくっついて停まっていたらどうなっただろう。影響はバスの乗車客だけにとどまらない。少数だからいいということにはならない。そういう想像力が働かず思考も及ばない者を都会でマイカーに乗る田舎者と呼んでみようか。

 

たったひとりの心無い者の、ある行為が計り知れない悪影響を及ぼしているが、悪影響を日々受けている人びとが、自分のこととして受け取ろうとしない。自分の足もとにある問題として見ていない。スマホを四六時中覗いてばかりいて現実を見て考えていない。

 

そういう自分たちの足もとのことにさへ無関心な人の人口に占める割合が多くなると、法律で取り締まれ!などと安易な発想をする人も多い。人々の現実への無関心が大きく多くなればなるほど、法律を作っても無駄になる。しかしそれは、個人の自由が全て法律文・条例文によって規定・限定されてしまうことを意味する。

皆が最低限の社会的マナーを守ることができれば、いまある法律は実は半分くらいでいいのではないかと思う。タバコポイ捨て条例ができて数十年経つが、道路には相変わらずタバコの吸い殻が沢山落ちている。ついでに無責任な飼い主の犬の糞も沢山落ちている。湿度の高い日には犬の小便の臭いもむっとするほど漂っている。バスの車内にはたったひとりのドキツイ香水がよどんでいる。

 

犬も猫も小鳥たちも「間」を持っている。間合いを持っている。都会の満員電車や満員バスにそんなものはない。都会の人間同士が互いの間合いを取る自由はもう既に許されていないのが現実だ。許していない相手はいったい誰なのか。「間・間合い」の自由は、コロナのときだけ2mということだ。貧乏くさい国だこと。

 

えーい!何でもかんでも法律で決めてしまえ。というのが大衆迎合政治の悪しき面だ。人々はそのことで結果として自由を奪われていく。いま生まれた子どもたちは、奪われた状態を自由と思い込んで育つことだろう。そしてまた社会は劣化していく。ポピュリズム(情報洗脳プロパガンダ大手TV新聞スマホ報道・大手広告情報)政治バンザーイである。

 

 

 

2024  0307 11:00

価値ってナニ?

価値があってそこから付加価値が生まれる。そもそも価値とは何を指すのだろうか。

喉が渇いたときに水を飲みたくなる。川や湖や井戸の水が綺麗ならそれを飲む。お代はいらない。が、この水には値段は無いが価値がある。これを水筒に入れて出先に持っていくと、これが付加価値になる。水筒という入れ物の付加価値と水の無い場所で喉が渇いても平気だという付加価値だ。(ペットボトル入りの水をオカネを出して買わなくていいという付加価値もある自販機に頼らなくていいという付加価値もある)

 

すべての人の日々の営みにこそ価値がありそこからしか付加価値は生まれない。

価値とは人を幸福にするものでなければ価値と呼べず、だから付加価値は人をより幸せにできないものは付加価値と呼べない。

人の営みが、地球から何かを抽出する。モノやサービスと呼ばれる価値だ。

抽出するわけだ。

もう一度、なにかを地球から抽出する。創造する。

想像して創造する行為を営む。

そこからオカネを抽出することばかり考えているのが金融工学だが、人の幸福とは何ら関係ない。

何を抽出するのか。

金銭(オカネ)なのか、それとも人の幸福を抽出するのか。

前者はより高価、もっと高価、もっともっと高価(オネダンのより高価モノ)なものを作り出し消費し破壊・廃棄することで回転させることが目的となり、一番高価なモノ、つまり兵器と戦争にならざるを得ない。オカネは必ず偏るからオカネだけを抽出しようとすると戦争になる。

本来そもそも人の営みは幸福を得る為の行為だから、地球や自分の脳味噌から抽出(創造)する価値は当然幸福を抽出するということになり、戦争や兵器を産む抽出の目的とは相反する。幸福を得るためには幸福を話し合って議論し合っていかなければならないけど、それを拒否して暴力武力に訴えるのが戦争だ。喧嘩の強い方が勝つというなら経済学なんていらなくなる。喧嘩の強い方がエライというなら猿の群れと同じで人間じゃない。

 

日本の消費税は付加価値税と言われている税だけど、単純に金銭的価値を税で上乗せしただけだから、そのものの価値が上がったわけでもないし人の幸福とも何の関係もない。

税徴収する為の屁理屈に過ぎないが、消費税を喜んでいる人も少数だかいる。

それは収入における生活費の比率が低い人。簡単なはなし高額所得者だ。株価だ土地バブルだので数億円プレーヤーだったりする少数の人は主たる収入源である利子所得の税率が低いことをひた隠しにしていて、次の月の給料日までかつかつで生きていたり、買い物で財布の中を気にしている殆ど大多数の人々にそのことを知られたくない。

学者たちが、昔の経済学者のダレソレがこう言っていて昔の哲学者がああいっていてなどと講釈を垂れ続けているけれど、その昔のエライ人がそんなに以前に指摘しているのにそうなってないことの説明をしようとしない。単なる講釈垂れのセンズリでしかない。

中学の数学で習う比例をセンズリ学者学会では線形などと呼び名を変えて悦に入り一般人を雲に巻く。

数十年、百年も前のエライ人が指摘したことがなされていないのは何故なのかのそれが理由だ。

つまり「一般人に分かりやすく説明する」ことを怠ってきたというわけだ。

年間100兆円という膨大なオカネが予算として計上されるがこの国は昔からず~っと相変わらずスキャンダル追及ばかりで議論が進まない。説明するといって「何も、一言たりとも」説明していない。それは一党独裁だからでその100兆の群がる学者が多いからでもある。

100兆円がどこから来てどこへ消えていくのか学ぶのは容易ではないけれど、もしかしたら誰も把握していないのかもしれないが、学ぼうとすると講義に数万円支払ってみたいなことになる。歳入50兆は俺たちの税金からなら学ぶ権利というか教える義務があるはずだが、学者は誰もそのことを言わない。だって権益だからとぬかす始末だ。

だからこそ俺たち「一般人が知ること」から始めるというのを、俺がずっと前から始めているというはなし。

ガザだって世界中が知ることからしか始まらなかったし、知って抗議が世界中で始まったのだから。

 

人の幸福は形がないから説明が難しいけれど、誰もがその為に生きて営んでいるのは普遍でありそれは真理だから。

 

 

 

 

2024  0301 11:00

メモ

暮れの年賀状集配所が仮設され背後に郵政民営化を叫び叩き売りが行われようとしていたときに誕生した命。

どしゃぶりの中、停まった車にぶつかった自転車乗り。

自転車が自転すると倒れずに走ること、独楽が停まると倒れることは説明できるが、何故倒れないのかを未だ説明できない物理学。

秋葉原駅の構内空調設備工事の帰りの改札口ですれ違った。

本格的な断片整理を始めようかと。

スポットライト

聖なる”何か”と宗教はどちらが先か

襟音

信号はなぜ必要でいつ生まれたのか

 

 

 

2024   2.3  18:42

横浜

画像は先日1月31日 18時ころ(日没の少し後)の外人墓地から富士山方角の空を写したもの。

長調、短調、音楽を感じるように自由に見た時の、貴方の感覚が真実。

焦点が合わない

 

 

 

 

 

 

 

2024  1.27  14:50

京都

随分まえに京都に行ったときに、四条の角で道を尋ねた。

 

この辺にある、これこれこういう処に行きたいのだが知りませんか。

京都の人々の土地勘というのは、線と面で捉えているのだろうか。どうも点で考える私としては難解で、慣れるまでに時間がかかるから、何度も通わなくてはならないだろう。

そういえば、大阪でも道を尋ねた。これまた親切に教えてくれた。

わざわざスマホやタブレットで検索してくれて教えてくれるので恐縮してしまう。

スマホを持っていないような年配の人に尋ねると、わからないな~でもアソコで訊けば教えてくれると思うよ、といって案内してくれる。知ってれば、二つ目の信号を曲がって何件目だよ。などと教えてくれる。私の場合、こういった説明のほうが頭にイメージが湧きやすいので、最近は訊くなら年配の方と思っている。

嵐山のバス停でバスを待っていると、地元京都の、やや年配の人が話しかけてきた。京都弁というのはまた独特の柔らかさがある。あれこれ話し込んでいるうちに、そうなんです、返って地元のことを地元の人が知らないことがあるんです。と言っていた。

観光案内について、外から来る者にとりあの観光案内は分かりずらいという話をすると地元の人もよく分からないという。そういえば横浜の案内も私には分かりずらい。正直に案内の通りに歩くと同じところをぐるぐる回ってしまう。

観光案内は外の人に作ってもらうほうがいいような気がする。初めて来てもらって案内を作ってもらう。よそ者がなにを言ってんだいというのは、こういう場合通用しない。

観光案内がいったいどちら(観光客なのか標識業界なのか)を向いて作成されているのかということだろう。

 

 

アイキャッチ画像は京都国立博物館HPより拝借

https://www.kyohaku.go.jp/eng/exhibitions/feature/b/tatsu_2024/

 

中国の画家が当時の日本の外交官にプレゼントしたものらしい。年代などを調べてみるのも面白い。

昇竜をその上から見た構図(画家の目線)はいったい何を意味しているのか。

この絵と並ぶ他の竜の絵と圧倒的に違うのが「目の輪郭」だ。そして眼球がとても澄んでいる。

死んでしまった猫のちびが私を見上げる目にとてもよく似ていて、ちょっと切なくもなってしまった。

この博物館のガラス張り休憩室の外には地蔵が並んで置かれている。あの静かな空間でひととき妄想するのもまたおつである。

 

 

2024 1.22   21:39

日本人の笑いのツボ

2018年の1月18日に、早稲田大学大隈記念講堂、大講堂で

鈴木忠志×渡辺保 「劇的なるものをめぐってⅡ」ってのがあって見に行った。

あれからすでに6年が経つ。

二階席で見たんだがなんだか詰まらない。理屈っぽくてつまらない。それでも

思わず声に出して笑ってしまう場面があった。会場は深としているのに私だけ大声で

笑って、その声が会場にこだましてしまう、みたいな場面が、スクリーンに映しださ

れる映像とは別に、リアルで私的な臨場感としてあった。

 

立川談志という、この落語の天才は死んでしまった。残った弟子はなんだか

NHKのサラリーマンみたいなバカヤローばかりで、この師匠からアノ弟子はないだろうと

そう思う。無毒無害で無味無臭、あたらずさわらずなサラリーマン弟子。

 

だいたい、芸のこやしにするために政治家になったなんてのは、いくらキツイシャレ

でもいただけない。この天才は政治家などになるべきではなかった。とそう思う。

しかしこの人の「芝浜」は鬼気迫る芸を感ずるし、これは円熟というほかない。

談志のファンと私の笑いのツボが違っている。

ドギツイシャレが彼の真骨頂であって、私のツボをくすぐるが、談志ファンはそうではない。

この間のずれを埋めようとする談志は憐れだと思う。理解者がいないのだから。

 

この人の落語は映画だ。それも日本の時代劇。

バカといわれるくらいに正直な日本人文化、日本人の心象を描いているまさに文化人と呼ぶに相応しい。

この正直さに涙腺が緩まないようなやつは日本人じゃない。

人を騙してでも、数字を上げることを善しとするオカネ至上主義(別名:実力主義というらしい)の欧米価値観との圧倒的違いだ。

 

2024.1.12

亭主関白とかかあ天下

家庭に土足で入って来るもの

子供の喧嘩に親が出るようになって、それでも夫婦喧嘩は犬も食わない。家族は仲良くと役所から通達が来てやがて通達は勅語に変わろうとしている。

勅語というのは天皇からの勅令(命令)であって、そんなものが家庭の中まで土足で入ってこようとしているが、天皇はそんなこと言った覚えはないらしい。役所が推し進めようとしている勅語教育が学校だけでなく家庭の中にまで入ってこようとしている。それは昔の天皇の勅語らしい。

家族仲良くしろ!

他人から言われるまでもないが、喧嘩することだってあり、そんな法律が通ってしまうと家族同士が喧嘩すると逮捕されたりすることになるなんて。

ただせさへスマホを手にする度に脳みその中身まで監視されてる状況だというのにな。

カネに汚い政治家男女と下半身がとてもフシダラな芸能人が大手を振って歩いている世の中は、その影響の大きさを加味すれば罪としては三倍づけだ。そういう者たちが来る日もくる日もTV画面からお茶の間へ土足で入ってくるのを不快に感ずるあなたの感覚は正しい。

 

2024.1.2

謹賀新年

年の始めに

日本に住んでいる人すべてが、一度くらい読んでおくべき日本の憲法から。

 

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.

We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

 

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

CHAPTER II. RENUNCIATION OF WAR
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

サイトの背景画像はガザの作家の展示会を撮影したものです。

「artist brige」

撮影日 2018年2月27日

撮影場所 関内 ギャラリーSHIMUZU

 

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2023.12.25

栗きんとん

サイレント・ナイト

ホーリー・ナイト

静かなはずの夜に突然花火が上がった。どーん!

横浜のクリスマスの夜は静かではない。横浜で歳を越す外国のクリスチャンはどう思うのだろうか。エルサレムの近所では祝うどころではないということだ。

今年の年初に「体を造りかえる」という念願を建てた。

血圧が高めで不眠症でずぼらで出不精でハメマラのハを飛ばしてメにきてしまっているからだった。

運動をして繊維質を摂り薬を極力控え、こまめに洗濯と掃除をすることとした。

なんだかんだと試したところ、やはり一番の原因は飲酒であることがほぼ判明したので、今度はアルコールを控えている。

中島らも「今夜すべてのバーで」

あの本に出てくるアルチューとか、

映画「大病人」に出てくるアルチューの

映画監督などを題材に、自分のなかで恐怖心を煽ってみた。

結果からいえば、やめられない。やめられないものを無理にやめようという目標を立てるのは、なんども何度もその都度その都度自分に嘘をつくことになり、それはそれで鬱病を悪化させる。やめられないことをやめると自分に約束し、守れない自分に自己嫌悪し、アルコールはやめられない。待ち受けるのは肝硬変か黄疸はたまた肝臓癌の悪循環。精神と肉体のバランスをとることが大切だ。

そんなくだらないことをつらつら日々考えながらチビチビやっていたら酒量が減った。まぁ、いってみれば自己暗示というのだろうか、よく分からない。

アルコールを抜いていくと三日目くらいで味覚が変化する。それまで舌に被されていたベールが剥がれ落ちて、味覚が蘇る。なにを食べても美味しい水も旨い。

食前酒(アペリティフ)というのがある。食事を美味しく頂きながら相手との会話を盛り立てるためにする行為らしいが、食前酒のつもりで飲み出したのに、飯を食わずに飲んでばかりいるというこの数十年の悪癖を、サイレントキラーが来る前になんとかしようという試みなのである。今月はこれで酒量が半減した。

もうね、ご飯が旨い。ご飯と納豆とお新香だけでイケル感じだ。というのがあり、突然なんだが一念発起して白菜を干して漬けた。飽きっぽいのでこの先漬物はつづくかどうなることやらわからない。が、なにもしないよりゃましだろう。塩分控えめが肝要だ。

学生のころから甘いものが苦手で(彼女と二人のときはもちろん美味しそうにいちごショート食ったけど、俺のウソツキ!)煎餅をかじるほうが好きだったが、それにしても白菜漬けがこれほど美味しいとは。

昨夕、イヴの伊勢佐木町は例年のごとくケーキの踊り子が目立っていた。この日を乗り越えると、「もういくつ寝ると寝正月・・・」という、怒涛のアルコール肝臓終末論的約二週間の誘惑に闘いをいどむことになる。自己嫌悪しないために軽く構えたつもりが、かえって固く身構えるという状況に対して、まぁ少し落ち着けよと自分で自分に言い聞かすこの歳の暮れ除夜の鐘百八つ。

こういうときには甘いものを思い浮かべると飲酒欲は消え失せる。いちごショートもいいけどモンブランの方が栗きんとんも乗っているし、お節も同時に味わえるというなんとも神も仏をも恐れぬ不届きな考えで頭の中を埋め尽くす。近所で鐘つかせてくれる寺があるなら行って突いてこようか。ああいう場所につきものの甘酒ホットはいかがなものか。

お節といえば重箱の蓋を開ける前に用意するべきお雑煮を蔑ろにするわけにはいかない。あの、最初はツンツン角がありながら、それでいて優しく熱すると少しずつ色付き、そしてぷっと膨れた頬が弾ける伸し餅四十二分の一の断片。これには日本酒だよね・・・。

呑兵衛の言い訳は飽くことなく懲りない。困ったもんだ。

 

それでは。

良い歳をお迎えください。

 

 

2023年12月12日

人は変わる

以前、こんなことを書いた。その時に思った正直な気持ちだ。

オシャベリおばさんの心の内

2016-10-25だから、このときからもう7年以上たった。

 

夏の終わりころだったか、歯の治療に行った帰りの電車のなかでこんなことがあった。

私は車両と車両の連結のすぐ近くの座席、そうあの三人座席「優先席」に座って車窓から外を眺めていた。やわらかい物を食べてくださいねと医師に言われていた。晩ごはんのおかずは何にしようか、スーパーで何を買おうか、冷蔵庫に何が残っていたっけ、そもそも俺、何が食いたいんだろう、デパ地下で下見していくか、それとも寄り道して・・・

と、そこで肉声の車内アナウンスが聞こえてくるではないか。スピーカーを通していないその肉声は、だんだんと近づいてくる。

隣の車両から現われたその青年は指差呼称、身振り手振りで「つぎは**駅~ドコソコへお越しの方はお降りください・・・おわすれものおとしものございませんようきをつけて・・・」

それはもうプロといっていいほどのイイカンジで、私は思わず心のなかで拍手喝采してしまった。とても詳しい、ディテールまでリアル!発声は腹式呼吸で声も悪くない。TV歌合戦の審査員みたくなってきた。できればアンコールを所望したいくらいだったが、周囲を見渡すと・・・。

例の、あの特有の、重苦しい雰囲気が漂っている。この数分間のできごとをもし絵画にするとしたら、シュール・リアリズム画家であるダリの出番ということになりそうだ。ギャップが甚だしい。

朝の殺人満員電車時間帯とは、トキとバアイとマアイが違う。

電鉄で働く駅員さんだって、こんなにつぶさに研究される対象になっているのなら、ちょっと照れるがウレシハズカシ的ではあろうが、お仕事の甲斐があるってものだろう。こんなに電車好きな人は有り難い存在じゃないのか。もしかしたらそうではなく、単に迷惑だと思うのだろうか。自分にとって迷惑なのだろうか、他のお客様にとり迷惑と”思う”のだろうか。

本日この車両の運転手は君で車掌はヤツでアナウンスはjannmu。ちょっと言葉つきが不良っぽいけど、タマニャーそういうのも良いというお客様のご要望に勝手にお答えしつつ、うるさくない程度にアナウンスするんでヨロシクネ~。みたいな個性的アナウンスがあってもいいのではないかとも思う。そういう駅員に電車マニアのおっかけがついたりしたらもう、TVなんかいらない。

車内がピリピリと静電気が立つような雰囲気と、和やかな雰囲気とどちらを望むだろうか。そして誰も排除せずに。

オシャベリおばさんもこの彼も、誰かに喧嘩腰で噛り付いたりしない。そのことはその場の誰もが理解し感じているが、異質な人が突然現れたときに、どうしたらいいのか分からない。白い目で見たり無視したりする。ノリが悪いしユーモアがない。

 

「許容」という言葉が脳裏に浮かぶ。

 

電車やバスのなかで携帯電話で誰かと話をすることをイケナイ事としたのは、誰がいつごろからなんだろうか。目的は何なのだろうか。

私は遠出をするときくらいしか携帯電話を持たないが、車内で携帯電話をマナーモードにしたり通話をお控えする必要がどこにあるんだろうと疑問に思っているし、最近ではその為に持っているのだから通話してもいいのではないかとも思っている。

賛否両論あると思うが、黙っていてはこれまでのまま。

これらのことは、障がい者と呼ばれる人々(実は私も手帳を持っている)をこの社会の精神的隔離から解き放てるかどうかに関係しているし、この関係に無関係な人は地球上に存在しない。白い目を向けるべきはあるが、俺たち同士じゃない。

そして人は変わる

 

 

2023年12月1日 10:27

砂漠の7,0

砂漠の民の視力は7,0以上あると昔何かで読んだ。

それならアフリカの草原の民の視力も同じくらい遠くまで見通せるだろうと思う。

陸地だけでなく遠洋漁業の漁師も海のずっと向こうまで見渡せるのではないんだろうか。

彼等にとっては実際に見えるから、数時間後に襲来する嵐や雨を察知できるが、それを違う生活環境に暮らす人に言ったらOMGとかマジックだとか神業だとか言われるのかもしれない。

これが実際に見える人と見えない人の違いだ。見えないほどもっと遠くにある水の臭いを感知する能力を、野生動物だけではなく人間だって持っていた。持っていた能力がなんで無くなってしまったのか。それは住んでいる環境を見渡せばだれにでもわかる。

便利が故に、鋭い感覚が失われている。便利を支えているのはいったいなんだろう。

もしその「支えている何か」が失われたら、感覚を放棄してしまった人間はどうなるのだろう。

歩かなくなった人間や遊ばなくなった子どもや走ることを抑えられた飼い犬だとかは健康だろうか。

薬を飲んで血圧を下げて、それを健康と呼ぶ思想は健全なんだろうか。

 

書けば一晩中こんなことを続けることができるほど、周囲に疑問が転がっているけれど、そういうことを続けると精神的に不健康になってしまうので、このくらいにしておこう。

これを読んだ人自身が、これらの疑問に付け加えることができたなら、それが初めの一歩になるだろう。少数の人が百歩進むより、大勢の人が一歩進むことの方が場合によっては大切なのではないのか。

 

 

プラトンとアリストテレス

 

眠れない夜がずっと続いている。

なんだか私の人生は眠い人生だなと、そう思う。

幼い頃は布団に入ると喘息と皮膚アレルギーで眠れない。朝方にうとっとすると寝小便をしてしまう。目が覚める。

小学校に上がってからかそれが治ったと思ったら今度は鼻アレルギーに悩まされそれが続いている。

 

学生の頃、ポケットティッシュは必需携帯品だったが、余りに強くハナチンすると鼻血が出てしまうことがある。

忘れもしない高校入学試験のときの経験だ。

受験生は真剣な面持ちで受験票の番号順に席に座っている。そこへ担当教官が恭(うやうや)しく登場し、教室内はより一層しんと静まり返る。

「始め!」試験管が時計を見ながら声を挙げた。

答案用紙をめくる音、鉛筆と用紙が擦れあう音だけがその校舎内を重たく包んでいる。

 

ズル。

ズルズル・・・

一筋の液体が私の鼻の穴から上唇を伝って、ポタっと答案用紙に落ちた。私のテンションが一気に上昇し血が頭に昇って集中力は空っぽだ。誰も見ていない、目撃者はいるはずもない。自分に言い聞かせ、騒がす慌てずおもむろにポケットティッシュを取り出した。

セロファンがクチャクチャと音を立てる、取り出した一枚を鼻に充てる。

静かに「チーン!ズズー」

誰もいない森の奥の湖面にいきなり巨大魚が飛び跳ねたような気配。

もうそのあとは覚えていない。試験は不合格だった。

 

いまだったら遠慮せずに心ゆくまで鼻をかみゃーよかったと思うのだが後の祭りだ。

あの頃の私は純情だったな。

 

ということで本題。

「無力と微力の二人の天使」

この二人の天使の物語は、この東大授業を聴いたかぎりプラトンとアリストテレスがモデルになっているようだ。(どちらにしても神話だから)

 

高校生と大学生のための金曜特別講座「古代ギリシア哲学を学ぶ意義」納富信留

https://www.youtube.com/watch?v=WJq903MLH2E

彼らは後の有名な学者の祖とされているが、彼らにはセンセーやガッコはあったのかといえば、いなかったし無かったと思う。それでは彼らは何から学んだのかという疑問が残る。そこのところはこの授業には出てこなかった。欧米人のなんだか喧嘩腰のように聞こえる会話もここから、シカゴ学派へもここから。なるほどそうか。

学校ってなんだろう。学ぶってなんだろう。

ほとんどの人は学校を卒業すると学ぶことをやめてしまう。本来は社会に出てからが学びのはずで、社会こそが学校なのじゃないのかと思う。

学ぶ者と学ばない者、10年も経てば差がつくのは当たり前だが、平等公平とはいったいなんだろう。スポーツや芸事だって同じだが、才能とか資質、生まれ持った物ってなんだろう。

プラトンが天を指しアリストテレスは地を指した。しかし天ばかりが先行して、いまの欧米の過度な科学信仰が、戦争や医学腐敗を志向してはいないだろうか。

錬金目的は学問のはずがない。学校は企業じゃない。

 

パーソナルコンピュータを手にし、使い方を覚えたのが40歳近くなってからだったが、それから記憶力が飛躍した。年中下を向かないでいいので鼻水が出ない。これを読者は冗談だと思うかもしれないが、本人の実感するところだ。しかし他の人に当てはまるとは限らない。

 

投稿日: 2023年11月27日 10:27

 

サラリーマンの昼休み
サラリーマンをしていたころ、昼休みの退屈を会社近隣の商店街や公園などをブラブラ散歩して過ごしていた。

昼食は毎日決まっていて、朝にコンビニで1.5リットルのお茶とおにぎりを三つ買う。いつもと同じ棚の梅、シャケ、昆布エトセトラ・・・。値段の安い順の範囲内なのだが、派遣会社から派遣された企業、その企業から他企業へ出向して常駐するという、とてもややこしい非正規社員の私の、それがお小遣いの範囲内。私の給料はいったいどこから出ていて中間にどれだけ関わっているのだろうか。
自分の机で毎日同じものを食べているのを同僚にはあまり見られたくない。だからなるべく会社の外で食べる。ベンチのある公園を探して。 追加: 幼い頃は布団に入ると喘息と皮膚アレルギーで眠れない。朝方にうとっとすると寝小便をしてしまう。目が覚める。
近くの広場の決まったベンチに座って、いつものごとく旨くもない握り飯を食べていると、決まって現われる人がいた。彼は、押してきた台車にベンチ脇の屑籠の中身を移し、タバコ吸い殻入れの水溜まりを清掃して、また次の屑籠に移動していく。慣れた出際で仕事をこなしていく。私はそれを遠目越しについつい観察していた。ほかの清掃員と揃いの作業着を着ていたから、近隣ビル清掃会社で働いているのだろう。サラリーマンの昼休みの時間。
いずれ書くと思うが、ビル清掃は私を育ててくれたバーちゃんが、ジーちゃんが死んだあと麻雀屋をたたんでから就いた仕事だ。臨時雇いでボーナスなどなく、あちこちの現場に行かされる。給料は安いのに人づかいは荒いとこぼしていた。
そして私は妄想する。もし彼らがいなかったらこの広場はごみだらけになっているだろう。働き先でも住んいでる地域でも、街が綺麗になっているのは誰かが人知れずごみを拾い片付けているからなのだ。裏路地の階段も表通りの塵の集積所も、必ず誰かが綺麗にしていてくれる。そう思うと感謝せずにはいられない。だからポイ捨て吸い殻や犬の糞があると、そういう意味で私はとても、猛烈に、沸騰したヤカンのように、腹が立つ。

彼は二十歳で死んだ私の弟の持つ特徴と同じ雰囲気を持っていた。弟は生まれたときに両足が不自由(内反足といって爪先が極端に内側向)、目はロンパリだったが、小学校に上がる前には新聞のひらがなは全部読むことができていたので、頭の良い弟だと贔屓目だが思っていた。その後何度か手術で全身麻酔をかけられた。本人にはつらい手術だったと思う。そして弟はいまでいう知的障がいを持つことになった。身体的障がいの手術を受け、ほかの障がいに変化してしまった。だから私はそういう人がいるとどうしても目で追ってしまう。
晴れた日に野外で昼食を取るのは私にとり息抜きとして欠かせない。
端から端まで見通せる、びっしりと並んだ机と椅子。200人くらいいるひとつのフロア。それぞれがPC画面を眺め、受話器を耳に充て、キーボードからカチャカチャ音を発して仕事している。地上30階の圧迫感。
それまでずっと職人仕事で、野外で昼を過ごすのが当たり前だったからだろうか。しかし雨の日には困った。職人をしているときには現場の建屋や車の中で食べていたが、スーツを着てネクタイを締めて雨宿りしながら手持ちの弁当を食べられる場所はビジネス街には何故かない。会社周辺を探しても殆どない。仕方なく自分の机で食べることになる。
おにぎり三つ、ものの10分で食べ終わる。決して豊かなランチとは呼べない。なんとも味気ない。抗うつ剤を飲み余った昼休みの時間、ネットで時間の空白を探る。
私の勤めていた会社は求人サイト検索すると何故か「駄目だしNG」の警告画面が出る。仕方がないのでニュースを読んで昼休みの時間を過ごしていた。
事件・事故があちこちで毎日起こる。それをニュースで知ったところで自分の何が変わるのだろうか。知ったら何かいいことがあるのだろうか。知ることによって自分に起こるかもしれない事件・事故を防ぐことができるだろうか。気をつけることはできるけど、気をつけている隙を突いて起こるのが事件・事故ではないのか。
自宅では新聞はおろかTVニュースすら見ない。世の中で何が起きているのか、なんで自分の心や生活が苦しいのか何も知らないわらない。そういう人間だった。
いま考えてみれば、ニュースを読むようになったのは、昼休みの虚しい暇つぶしからだった。
そしていまはそのニュース批判をしている。大手新聞社や地方紙そしてTV報道は嘘が多く、重要なことを隠蔽している。