自然と一体

自然と一体

今日は5時間くらいチャリンコで走ってきた。
歩くこと、ランニングで汗をかくこと、そしてチャリンコで遠出をすること。
これで高かった血圧が下がり、薬を飲んでいない。

横浜から鎌倉に向かって走っていった。
歩いたり走ったりするのとは違い、チャリンコで走るとまた別の世界が見えてくるものだ。
横浜や関内周辺はレンタルのチャリなんかも整備されていて、それなりにチャリ走行環境が整っている。
少し遠出をすると、道路はまだまだ走り難い。
片側1車線のトンネルなんかを通過する際にはとんでもなく危険が伴っている。
事故の危険ばかりでなく、耳をつんざくような騒音や濃度の高い排ガスなど。
排ガスに関しては、普段薄まった排ガスを吸い続けていることを改めて感ずることができる。

20年前から既に排ガスに有害物質を含まない燃料があるというのに、遅々として進まない排ガス行政や市民感覚に疑問を持つ。小金持ち風に限って、ロートルポンコツ車を自慢げに乗っている。感覚的に田舎者なのだろう。「俺の愛車スゴイだろう」自分自身に自信が持てず出しゃ誰でも買えるモノに執着する。「お前には買えないだろ」そう、買わない。結局そういう輩はカネへの執着を物を所持することで表現したい。

とある小高い場所に古民家や畑、公園があった。そこでしばらく休憩を取った。
野鳥が囀り、草花が優しい風にそよぎ、蝶々や蜜蜂が舞っている。
騒音や排ガスから隔絶されている場所だ。
そこでは自然との一体感を覚える。
人は自然と一体なのだと感ずる。
自然なしでは人は生きることができないことを感ずるのだ。
この感覚を失いたくないと思った。
そこには竹炭を焼く窯が置いてあって、出番まで静かに昼寝をしているようだった。

考えてみれば、地下資源に日々の暮らしの殆どを頼り切っている人間の生活は、それ自体が自然環境破壊に直結していることは言うまでもないだろう。
化石燃料からの脱却は人類の至上命題と既になっていることを改めて自覚した。
久々に清々しい深呼吸をして帰路についた。
丘公園からの尾根伝いの道はこの季節、花の甘い香りに満ちている。
深夜に散歩すると、少し湿った軟らかい甘さが心をくすぐるが、エンジン音がその心地よさをかき消して、そのあと残るものは肺を突き刺すようなヒリヒリとしたものだ。

丘から見下ろす景色は、暗くない夜を映している。
昼間でもなく夜でもない空間は異様で無意味な光の空間だ。
星々の姿を覆い隠し、感覚を麻痺させる空閑だ。

SDGsなんていいながらこの国の北から南まで何をしてるか知らないのか?

2016/04/27

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