初めての骨折 2022 11/10

 

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2023年11月16日

 

去年の10月初旬、夜中に悪夢を見た。

内容は忘れてしまったが夢の中で何かと闘っていた。殴った相手は枕元の窓ガラスの桟だった。朝起きると腕がぷっくりと腫れていた。どうやら私のレム睡眠は鮮明過ぎるようで、支離滅裂なストーリーは映画の影響が大きいようだ。その後通院しながら、あれこれ考えたことを記録した。骨折はギプスをして自然治癒を待つか、手術して骨を金具で接着するか二つの利療法があり私は前者でいくことにした。

 

デジタル的な表現に逆らうかのように、あるいは真っ当な日記のように。何かを文字に書くというのは誰かが読むことを前提にしている。日記の場合自分が読み返すものなのだが、ここに書く日記はそれとは少し性格が違う。

以下順時系列

 

10/4

利き腕でない方の手で箸を使う事がこれほど難しいとは・・・。

欧米映画で役者が箸で食事するシーンがある。このひとたち(箸を使わない食文化)は不器用だよな~なんて思っていたが、映画の撮影前にそれなりに訓練しないと映画のシーンにはならないだろうし、イメージやキャラ固定した日本の芸能人と比べると結構大変な仕事なんだな~と、こうなって思い直す。

それじゃここのところの外国映画や音楽のつまらなさはいったいどういうことなのか。

特殊メイクやデジタルなコンピューター・イフェクトで、今日の私の箸の動きのようにぎこちなくどこか不自然な体の動きや物語展開が、子供騙しであることが見て取れるからだろう。音楽ライヴは録音クチパクばかりだし。

スタントシーンで、本当のスタントならああいう体の動きにはならない。

 

音楽も以下同文で、機械で正確な電子音ビート刻みばかりのダンスミュージックは聴くに値しないし、あれなら私のキャベツの千切りまな板音のほうが耳に心地いい。日本のいまの若者の音楽は詩(言葉)を粗末に扱っているから、これまた聴くに堪えない。ラップなら尚更言葉が大切だが、何を言っているのか日本語歴60年のベテランにも分からない。そんな日本語でもなんでも無いラップも聴くに値しない。というか何言ってんだかメッセージが伝わらないじゃんな。

分からないように歌って歌詞カードを売るみたいなセコイことを考えていなきゃいいが。

どちらにせよ、机上で創る音楽なんてそれだけでつまらない。頭じゃなく体で表現し、感じるのが音楽だ。

がしかし、渋谷ハチ公前や横浜の繁華街などで、路上ライブを排除してきた芸術音痴な大人にも責任はある。

こないだ見た映画はつまらんものだった。映画なのに造りがTVなのだった。がっかりだった。TVドラマと映画との違いを判らないのは、TVばかり信仰崇拝しているからなのだろう。youtubeにもそうい安易で簡易なのが多いし、特定の情報を検閲し放送させないようにしていながらCMをむりやり見せようとしている。

ホントにつまらん世の中だ。

 

 

許認可と規制での、それら物事の入り口の間尺と自由度と安全度とは何かを考える。

 

10/5

一度にいろいろできていたことが、利き腕が使えないことで一つずつ、ゆっくりにしかできない。

できないを肯定的に、「できてもしないことはできる」と置き換えると、新たに見えてくるものがある。

食事をゆっくり摂ることは、大人の嗜みであるとこの歳になって改めて思い返す。

子供のころチョコでもガムでも煎餅でも、美味しいと感じた瞬間に「早く飲み込みたくて仕方ない」状態で飲み込んで、早飯早ぐそ芸の内と教えた母親のその時の心境に思い至る。

彼女は戦時中に生まれた人だ。

 

よく噛んで、噛みながら味わいながら少しずつ飲み込むことは、美味しいの基本であり健康の基本であり、平和な世の中が大前提である。

 

10/6

雨だ。

にもかかわらずに洗濯をした。洗濯といっても現代日本人は干すだけで洗濯は機械にやってもらっている。

昨日見たアメリカ映画での洗濯シーンは、シーツや枕カバーをまるめて洗濯機に放り込むだけだった。あの後を映画のストーリーとは別に想像するに、乾燥まで一直線、ほぼ1時間10分電力消費生活世界一を数秒の洗濯シーンのカットで表現してみました的に、このこっちの世界的なエネ代高騰の時期と相まってドキドキ・ハラハラ・しゃれにならん下手打ちゃスッカンピンそれこそ財布にビンビンくるようで、あとから思えば少しイタイ映画ではあった。

あっちの人たちゃなんでお日様に干さんかね~と文化の違いからくるエネ消費量格差というものに出くわすことになる。

 

 

片手で洗濯ものを干すというのはままならず、イテテっ!などとついつい口走りながらギブスの腕をそっと持ち上げ靴下だの柄パンだのを鋏に挟むのだが、部屋干しにする場合、風通りのよい干し方はどうするべきか。TO BE OR NOT TO BEなどと我ながら下らないことを考えているうちに籠の中の洗濯ものはいつのまにやらピンチに挟まれ、いつもよりなんだかだらしなく頼りなげによれよれと垂れ下がっている。

雨の日は傘ということになるが、片手しか使えないその片手が傘の柄に独占されてしまう状況をどう改善して歩いていくべきか、近所のスーパーへ買い物の道すがらコインランドリーを覗いてみれば、やはり雨であっても同じように洗濯機をまわす人がいる。なんだかほっとして通り過ぎると交叉点で急な横風に、か、か、傘が~!

買物の往路は始まったばかりだがこの先まだ書けば長くなる。片道歩いて15分くらいなのではあるのだが。

割愛する。

 

復路はバスで帰ろうと横断歩道の信号待ちをしていると向こう側、下校の時間の小学生が数人傘さしながら寒いのかポケットに片手を入れている。おこちゃまたちに手提げかばんではなくランドセルをしょわす意味を親に聞いてみておけな~などと思うのと時代の違いを肌で感ずるのだった。

バスは思ったより乗客が多かった。

 

10/7

いきなりなんだが合同結婚というのは、うまくいえないが何か気持ち悪さを感じる。

お見合い結婚は今でもあるのだろうか。それを集団でやって教祖が結婚の許認可を与え、並行して特定の思想を植えこまれるという、殆ど受動的な精神的閉鎖空間で生きるわけだけど。

 

昔、業者にカネ払ってお見合いパーティーに行き、一人10分ずつ会話してはハイ次と交代して、偏差値つけて選び合うとか、出会い相談所、登録者多数で貴方にぴったりのお相手が見つかりますだの、ネットの出会い系だとか、テレクラだとか、男女間に必ず第三者がカネ儲けで介入してるのに騙されあるいはそれを知りつつ参加する、みたいなのが多くあった。

あれって今もあるんだろうか、気持ち悪い。

 

今日も雨。

骨の折れた部分が少し痛む。手拭いを結わいて首から吊るした胸の高さで、時折痛みが走る。腕の重さで首が凝って目の奥まで痛くなる。

ほどほどにしておこう。

 

10/8

昨日は、日が暮れて勤め人の下校の時間ころに、たまたまいっとき雨が止んだので傘無しで買い物に出た。

亡くなってしまったが好きな作家、中島らも「今夜すべてのバーで」の主人公の入院場面を思い出す。入院してアルコールを数日絶つと、頭皮からフケが出た。という一節。

新陳代謝に肝臓の働きが大いに関係するのかもしれない。そう思いアルコールの代わりに牛乳を飲んでいる。これで折れた骨の奇跡的回復!を狙っているのだが、書いておいてなんだがこういう言い回しには注意が必要だ。

奇跡的回復したとしてもそれが通常で、当たり前の肝臓状態なのだ。

SNSでは相変わらず「お騒がせ愉快犯的確信犯」とそれに便乗するマッチポンプの方々が、所詮は広告媒体でしかない日本TW社の利益貢献に勤しんでいるようだ。

人びとが主体となって自分の意見を持ち、違う意見にも耳を傾けYESという専門家もNOという専門家の意見も読んだり聴いたりすることで、自然と知識はついてくる。

知識がつけば次の疑問が湧いてくる。それをできれば実際の人に会いに行き、実際の現場を訪れることで文字や画像に映らないものを感じることができる。

文化的生活の最低限を底上げすることは民主主義の基本だろう。

民主主義の名の元に、相も変わらず政治行政からいわれるまま、TV新聞を鵜呑みにしていては奴隷と同じで、江戸時代の切り捨て御免の世界となんらかわらない。

大正時代以前の普通選挙がなかった時代とかわらない。

民が主である主義では、主たる民を蔑ろにする公は変えていかなければならいし、民主主義は深化途中で確定したものじゃない。だから放っておくと形だけで中身は奴隷制へと後退してしまうのが民主主義だと知ることから始めよう。

これには西も東もなく右も左もない。

そして上記の意味で世界中が””後退””しているのがいまの流れだろう。

お米の値段がこの秋の新米から上がるということだ。主食のこと、政治家は何やってるのか!と声を挙げるべきときだ。

 

 

10/9

10/5に「できてもしないことはできる」と書いた。

隣の畑に入っていってようやく色づいた唐辛子の実を盗むこともできるし、居酒屋でつまらんことにカッとなって隣で飲んでる客の頭をビール瓶で勝ち割って殺すこともできるし、フォアグラに核物質を混ぜて病気にさせることもできるし、キャビアと明太子のカナッペの為のクッキーを遺伝子ごと変えてしまうことだってできる。

できるけどしない。というのが日本の憲法前文や9条の理念(じゃないの?)。勝敗や生死なんて度外視して戦争に進んだこの国として、度外視すりゃできるけどしない。やらない。そう決めた当時の日本に生まれ住んでいた99%の人々の教訓や生々しい思いが詰まっているこの理念を忘れてはならず、前文の通り、世界に向けて発信しなければ。

右翼左翼ともに、「戦争できない国とか、戦争ができるようになった」などというけれど、できるできないは、憲法で「できません・しません」と権力の暴走を明確に規定し、一般人としては暴走させないように権力監視しましょうねと、謳ったわけ。

これが「戦争なんて二度としない」とういう、「できない」という消極的な言葉ではなく、積極的に「しない」ということ。これをアベ以降、メディア含めて歪曲して「積極的平和=武器と基地」になっちゃったってわけだから、ジジババも中高生も騙されないようにしてほしいな。

 

マスコミのマスと死んじゃいマスの意味くらいは知ってなけりゃマズいよね。なんて・・・

マスコミとは、マスコミュニケーション
マスメディアとは、マスコミで使われる媒体

もういくつ寝るとくーりーすーマスのマスも同じMASS

大勢の人の塊りのことらしいが、私は「不特定多数」と解している。
もっと言うと、顔の見えない不特定多数。

クリスちゃんがマスになった日がクリスマスかな?

特定の個人がMASSになることを、彼の教義はどう説明しているんだろう?そう素朴に疑問を持つことが哲学の入り口だろう。

さすがに腕のギブスの内側が痒くてもうものすごい。痒みはあるが場所を特定できない。痒いと思って掻いてみても的を外しているというのはよくあることだ。
痒みMASSとなると痛みになるのかな?掻きすぎて痛くしちゃうこともよくある。痛みが痒みのMASS集合体であるとすると、痒みに痛みを与えることで痒みは消えるけど、度が過ぎると痛さが残る。かさぶたができちゃったりする。

ブログやSNSなどに何か書くというのはもうMASS不特定多数に向けてのことだからその辺を考えないと。

でも私は、不特定多数というより常連さんに向けてとか、場合によっては「たったひとりに向けて」書いたりする。君だけにそれが分かるように暗号化して。

 

10/10

「スポーツの日」とカレンダーには書かれていて、「体育の日」ではなくなってしまったようだ。スーパーには日の丸が掲げてある。

まず、スポーツという言葉は日本語ではない。このことに右派や保守と呼ばれる人たちはなにも感じないのだろうか。

左派にしても「ジェンダー」だのなんだのとやたらヨコモジを多用する。

もうひとつ、体育という日本語は「食育」という英語圏にはほぼ消滅した概念含めて、多様な意味合いを含んでいて、単なる競技とは明らかに違う。

例えば日本の法律が、カタカナ英語混じりで今後書かれてしまうとすると、それを誰も厳密に定義できなくなるだろう。それだけ私たちの文字表現空間は外来種に侵食されて、正確な意味がとても伝わり難くなっている。

他の言語文化と相互に理解し合うにしても、意味が空洞化しては相手にも理解しようがない。馬鹿が住む列島ということになってしまう。

 

異なる大陸プレートが衝突して日本列島全体が隆起していて、海岸線に急こう配の山や丘が迫っている。山や丘が急勾配の河川を歴史と共に形成している。海外の人はそれらの河川が滝に見えたりする。水は流れを止めると腐るのだ。

ちなみに、全世界の水に占める淡水の割合はたった1%といわれている。淡水が豊富、これがこの地域的な理というものだから、これを先人は生かしてきたはずだ。

言葉はこの「地の理」の上に形成された物だから、そこに住み暮らす者にしか理解できない「言外」を含んでいる。

言葉と文化が噛み合わなければ、それは意思疎通が空転してしまうことになる。法律も意味が空洞化してしまうから、運用する人間により違った運用がなされることになる。

これはもう法治ではなく、独裁とか寡頭とか人治ということになる。

私は反知性的な日本の政治や霞が関の上級官僚を上記の意味で否定するが、エリート(頭が良い)という意味の反エリートではない。いまの官僚役人は日本語が通じないから、そのことに危機感を覚えてはいる。

有名進学校を出て東大に入って省庁に入って、お勉強ばかりで世間を知らず、知らないまま今度は政治の魑魅魍魎に脳みそを擦られた、コンピューターの電子回路みたいな思考がたまらなく憐れでもある。

英語教育以前に国語教育に力を注ぐべきだろう。

ここに書いたのはあくまで標準語のこと。

寒いところと暖かいところでは口の動かし方からして違うから発音だって違うし、方言は地の理だから美しい。標準語と方言でもうすでにバイリンガル(複数語)だ。

大学教授でさへ、ヨコモジエイゴ連発する悪い癖の人が多い。

 

ギブスの奥が痒くて仕方ない。

*ギブス・・・骨折の患部を固定する石膏。最近はグラスファイバーが主流らしい。

 

10/11

ビールの値段がまた上がった。

大麦とその他の穀物などの割合で風味がきまる。大麦の割合でビールか発泡酒なのかが決まる。

この大麦とその他の穀物割合もいつの間にか改定されている。

酒税が上がり、消費税もダブルで盗られているのだが発泡酒ができた理由をビールを飲む人は知っているだろうか。

料理酒という日本酒に「塩」が添加された理由も併せて、酒呑みなら知っておくべきだろう。税金絡みだ。

ビールの値段が上がって風味(質)はどうかといえば、発泡酒並みに堕ちた。

裕福であろうと貧乏であろうと、人が生活するうえで欠かせない「衣食住」を蔑ろにする国は(昨日の言葉のこともある)滅びていくだろう。

カネ儲けが目的であると、どこかのカルト宗教教団の内幕が暴露されているようだ。資本主義か社会主義かということ以前の金銭腐敗の問題で、そもそも宗教がカネ儲けであること自体、その存在は否定されてしかるべきだろう。「衣食住」の根幹に係わることでもある。どうして係わるのかは各々考えてほしい。

反共と謳いながら反社会的な組織からの洗脳は、なにも特定の宗教教団に限ったことではない。

旧ソ連は正式名称:ソビエト社会主義共和国連邦といった。

ソ連が崩壊したのは、いまのアメリカ(の属国日本も)にしても同様だが、権力者、権力機構が自分の懐を潤す為に””権力を私物化””したことが原因だ。ナンチャラ主義をイデオロギーというらしいが、このイデオロギーとは全く関係なく、私物化を腐敗と呼ぶならば、腐敗を市民がチェックできない構造にこそ欠陥があるわけね。

憲法だけではなく法律も破っちゃって(既成事実化して)、それは駄目だろと多くの国民から声が挙がると、んじゃ新しい法律でと、破っちゃったことを合法化してしまったり、どこかからミサイルがタイミングよく飛んで来たり、戦争が起こったり、コロナの波がやってくるというわけで、みんな忘れちゃう。

しなくていいマスクは忘れないがあとは忘れちゃう、みんな。

暗くない夜

 

 

2023.12.24

10/13

動物園の猿のボス

年増の雌猿

動物園で餌を与える飼育係

フィンランド・ヘルシンキ発 ムーミンとトロール

 

動物園にいったときに、あれは日本猿だったか飼育員が餌を与えていて、遠くからなんだかギャーギャーと騒がしかった。

私がいったときにはボス猿と思しき雄猿が大声で群れを威嚇しながら独占状態で、人だかりもあったのでどうしようかと、ふと少し離れた場所をみると年増の雌と思しき猿が私と同じようにその様子を眺めている。

彼女の視線を確かめる為に近づいた。するとボス猿は彼女を盗られるとでもおもったのか猛然と走り寄ってきた。彼女をつれてずっと向こうの奥の見えないところへ行ってしまった。

猿の生態は人間に通ずるところもあり興味深い。

一昨日観たムーミン生みの親である作家「Tove」の物語は、恋愛と自由と嫉妬。

劇中、彼女に求婚した男性の言った台詞が印象的で、それは映画のエンディング前にも表現されている。

あの辺(ヨーロッパ)の自由恋愛観を(勿論実際とは違うだろうが)学んだが、どこぞの宗教集団結婚みたいなのはやはり気持ちが悪い。

最後は恋多き芸術家、まぁ映画としては納まるところに無難に納まったという印象だ。

自由は自分に義務付けるものじゃない。

これを多くの人が勘違いしているようだ。

 

 

10/14

骨折してから毎日のように映画を観ている。

夕べ寝しなに観た映画で、15年くらい前に書いた詩を思い出した。

Lunatic

存在する「無」にダークマターのイメージが重なる

ビッグバンに神の意思を認めようというのか

広がり続ける宇宙に腐りかけた地球

悪意に満ちた世界を闇という風が吹き抜ける

 

不幸な潜在意識の永遠の連鎖

繰り返し訪れる虚脱感にCD1枚分の溜息

孤独な猫のストレッチ

年老いたフラワーチャイルド

 

愛と自由と平和という幻想

ファシストが見る悪夢

やがて閉鎖される大きな動物園

紅い月に照らされた公園のベンチ

 

ルナティック

・・・・・・・

ビッグバンという””特異点””を仮定し展開する理論は、いかにもキリスト教的発想に思えるが、ダークマターやブラックホールの存在が確認されたなら””特異点””仮説は否定されるように素人ながらに思う。

これと曼荼羅思想との相違は何か。安冨歩の言う「親鸞思想」が私にはしっくり馴染む。

他者は他者としての自覚の有無にかかわらず、盗人であれ悪徳警官であれ善人であれ悪人であれ、鳥であれ魚であれ風であれ雨であれ、私に何かを伝えるために目の前に現われる。そのことで私は宇宙の真理に少しずつ近づくわけだ。

だから私には敵味方や上下関係や勝敗などという概念を必要としない精神環境があると思う。

 

この詩を書いたころは、私の鬱病が最もひどい時期だった。鬱病ですら私に何かを考えさせる時間を設ける他者だったということができる。

 

映画「And the Birds Rained Down」では、世界を動物園ではなく精神病棟として描いているようだ。

 

劇中ずっと物語の背景(サブテーマ)として静かに続く山火事は、いま世界が危惧しているアレのことか。

 

 

明日は多分「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」で始まる。

 

10/15

半間の玄関を開け放つと梅の木があり、その枝にはまだ葉が残ってはいるけど、ちらほらまばら。

雀たちの憩いの枝でもある。気温が下がってきたせいか胴体が丸っこくなっている。冬に備えて太ったのだろうか。愛いなやつらだ。

葉が繁っていたころのように、かくれんぼはもうできないよう。

 

八百屋にだいこん葉が売っていて、嬉しくなって購入した。だいこん葉というのは、一箇所に数粒の種を蒔き、ある程度育ったところで一つだけ残して間引くのだが、その間引いた未だ幼い大根のことで、10センチくらいの大根でも葉を沢山つけている。

私はこの白い実の部分は洗ってマヨをつけてそのまま丸ごと食べる。柔らかくて美味しい。葉はさっと炒めてもよし、茹でてもよし。

レタスやキャベツ、白菜なんかも一番中心部にある小さな芽みたいな部分を好んで食べる。白菜漬けでその部分がでてくると、なんだかちょっと得した気分になる。

葉の部分を入れて煮込みうどん、今日の夕食だ。自家製の唐辛子を少し入れて少しだけピリっとさせる。何とも言えない。もちろん汁も出汁取りから自家製です。

香草やスパイスは好みがあるけれど、美味しさを覚えると病みつきになる。胡椒で戦争が起きたこともあるのだ。

自分に危害を加える客に「お前にはもう胡椒を売ってやらん」というのは当たり前、「売ってやらん」という部分だけを取り「契約違反だ!」というのは逆恨みというものでお門違いですね。

八百屋さんには”四角豆”という初めて見るものがあり、あれはどういう豆なんだろうと気になっている。

もう日が暮れて雀たちも浅い夢を見ているころか。暖かいところでお腹いっぱい美味しいものを食べてる夢かな。

馬鹿な大人たちの喧嘩で子供たちが飢えるような世の中は、どうにかしなければなりません。無関心ではいられません。

 

10/16

明日書く予定。

現実でやるか、センチメンタルで書くか、イモーショナルで書くか、コンフューズしてるとこ。

 

10/18

16日に行った瀬谷の祭りの会場に入ったときに、以前いた祭り運営のなんだかんだを思い出した。

ああいうだだっ広い土の地面があることがどれだけ貴重であることなのか。地元の人は考えてほしいし、普段から子供たちに開放するべきだろう。そういう環境がまったくない中で、健全な人が育つかといえば育たないと言い切ってしまえると思う。

 

 

 

横浜みなとみらいは、既に過去であり、あれが本当に必要か考え直すべきで、功罪すべて棚卸して決算(数字)ではなく「総括」するべきだが、そいうことが全くなされないこの国の一般市民は、答えを出しようがない。

行政は敢えてそうして、投資呼び込み型バブル財政の悪循環に陥っている。

投資を呼び込めば、その投資先へのリターンが優先され一部の人を除き、市民には恩恵が殆ど無いことに、一人でも早く気づいて欲しいと思う。

腐敗、私物化行政を生む「投資呼び込み型財政」は、分かり易く言えば「開発行政」。

 

空気の浄化とフレッシュ・エアーとは何か?

薄く漂う、なくなってしまったその臭いがもたらしていた脳への自然な刺激とは。

TV番組の終わりにクイズを出すのはなぜか?ネット以前の問題として。

そのとき視聴者はなぜ、正解者の中から抽選でプレゼント当選者の発表は商品の発送を持って代えさせて頂かれるのか。

TVが毎日決まった時間にニュースと天気予報と今日の出来高・終値をやるのはなぜか。

どの局も、一色の話題で情報空間が埋め尽くされるときの話題に共通するのはなにか。

 

10/20

数日空いてしまった。

片腕を動かせないだけでいろいろ諸々がどうも億劫になってしまう。運動不足で肩も凝る。そんなときには歩くに限る。

小一時間外をぶらぶらするだけで体が温まる。キンモクセイの香りがほのかに漂っている。

秋の味覚を堪能しようと思う。

 

10/21

レジ袋有料化 2020年7月1日スタート。それからまる2年が経過した。この年の始めころに横浜が新型コロナ上陸地とされ、情報よりも早く、あっという間に菌が全国に広がった(とされている)。

「電車やバス車内ではマスクさして、その上さ会話も控えてくんろ」ということになったが、車内の定員超過というコロナ以前から続く満員電車における “運行側の安全運転義務違反” は相変わらず話題にすら昇らない。

義務強制と協力

その昔、商店街にばーちゃんと買い物に行くときには買い物籠は欠かせず、商店街に来る買い物客は皆、手に籠を下げてやってくる。

そののち、手ぶらでも大丈夫!ナントカ商店街へ来てね!という売り手側の思惑により、無料サービスとしての買い物袋がお店側都合で普及していった。

中省略。

その営みに対し行政が「買い物袋無料サービスを有料化せよ!」と言ったとすれば八百屋・お肉屋・魚屋さん個々のサービスに対する冒涜であり自由を破壊する政治介入だろう。しかし前もって知っていたとみられる大手チェーンのスーパー・コンビニを介し瞬く間に広がった有料化だった。

しかし日本人って役所に対して従順だ。

これを役所に対し文句を言いに行くとする。待ってましたとばかりに役人は、「よく知ってください、義務ではありません。ご協力のお願いです」と言うだろう。

商店主が営業に於ける顧客サービスをどうするかは、個々の店主が決める事であって、隣の店が有料化(という実はサービス低下)したからと言ってそれに習う必要などないはずだが、そうはならず右へならえするところが日本人の持つ気質というものか。

*利益として顕れるくらい沢山レジ袋が売れるのは、どういう規模の店だと思う?

コロッケ・メンチカツとかばら売りだったものが、コロナ以降はプラスチック容器に入れられて棚に並んでいる。

レジ袋によっては「有害なガスが出ません」と表示されているものもあるが有害なガスに二酸化炭素は含まれるんだろうか。コロッケの容器にはそういう表示はない・・・とか。

駅の通路や階段はコロナ以前からずっと「埃だらけ」だけど・・・とか。

世の中には分からないことが多い。知らざるを・・・知る。

 

己たちの悪行に己が気づき周囲も気づくと、今度は開き直り煮るなり約なり好きにしろという。

しかし、箸にも棒にもかからない、煮ても焼いても食えない輩は、相手にせずに放っておくというのが情報社会に於ける、市民メディアが学ぶべき最重要なこと。

 

10/22

記者クラブ報道と財界とTWのマッチポンプな昨日の22:00

 

流れとしては、匿名の煽り屋が多分初めから”仕込み”であろうこの女性を特定し個人をアップしたりする。

似非人権擁護家が、そのことに対しギャーギャー騒ぎ出す。

USJはただでCMできてホクホクだが、そもそも来場者個人の服装にまで制約を民間企業が制約を加えることに、重大な人権侵害がある。

んじゃ、レース場のレースクイーンとかプロレス・ボクシングのラウンドガールはどうなんだ?ってはなし。

過度って誰がいったい判断するんだよ?

 

毎晩のように映画を観てるけど、バトルロワイヤル的なものばかりで飽き飽きする。銃が出てこない洋画は殆どない。

子供のゲームも同じみたいだが、それを批判しながらどうなんだろうと思う。

パピヨンみたいなのはないんだろうかと思う。

 

 

10/23

欧米の科学信仰が科学万能主義を招き、それはAIが何でも解決するという「クローン技術」や「遺伝子組み換えやゲノム編集作物」や「臓器移植や試験管ベビーや代理母(全く関係のない女性の子宮に他人同士の受精卵を仕込んで育てる)」という、科学崇拝が、不妊症夫婦の悩みを解決するとされたが、単なる医学実験を人体で行う暴挙であることが明らかになっている。

殆どのアジア人や中東、アフリカ人はそのことを知るに至っていない。

科学の世界では1+1=2 これがその世界では絶対解答だが、人は科学では表現できず、だからといって宗教的なおまじないで病気が治るわけでもない。

それでは科学すら理解できない人々がこの時点で数周回遅れであることも明らかで、当然のごとく新型コロナに情報操作され行動をコントロールする実験に疑いすら持たないが、それ以前にくだらん宗教に未だに騙され続けていることで、もっと周回遅れだということも明らかになる。

その極致とも言うべき、株為替のドル一極支配の詐欺的負の側面が明らかだが、理解できずにまた更なる周回遅れが発覚したが、そもそも周回遅れのメディア記者はそことに言及できない。

だって多分彼らは知らないんだもん。

 

10/24

福島原発事故から1年半くらいあとにここ横浜へ引っ越してきた。

引っ越してきた当初は土地勘がまったくなく、あちこち歩き回った。裏道をみつけどこへ出るのかを覚えるのは、小学校のころの放課後の復習で経験済み。楽しいプチ冒険のようなものだ。

ママと一緒に公園デビュー世代には可哀想だが理解できないだろう。街が子供を拒否する環境は親の世代のせいだ。

学校給食で育ち盛りの腹減らし、子供たちが何を食べているのかさへ知らない気にしない。

一通り周辺の探検が済むとどこにどんなお店があって大体の値段も頭に入る。通常の買物で通る道がだんだん定まってくる。

昨日の買物memo

国産豚のこま肉、国産コメのお煎餅、日本茶はあるので国産のお魚、国産のねぎ(野菜)、厳密な意味では存在しないが国産の卵、国産大豆の豆腐、国産小麦のスパゲティー(乾麺)だったが、無いものがあったのでまた探索に出る楽しみができた。

通常の探索ルートを歩いていると、約10年で顔見知りになった人たちが「どうしたの?」。声を掛けてくれる。

腕のギブスを気にしてくれる、有り難いものだと思う。

始めの頃は目でおじぎ、その次にこんにちは、庭の花の名前や垣根の手入れなど聞けば教えてくれる。そういうのが一坪菜園に生きてくる。(いまは荒れ放題だけど)

他の動物と違い人間の大脳は、その為(個体識別)にあると学者が言っていたが、まさにその通りで、空っぽにしておく手はない。

 

10/17

昨日の検査では、骨は順調に回復しているようだ。

毎朝枕もとの窓の外から目覚ましの様に話しかけてくる鳥の囀りは、聴き様によっては「ピーチクパーチク」「ピースピース」。たぶんヒバリだろうと思う。カラスも私を起こしにやって来る。

どうも彼ら鳥たちは私を通してビジョンイメージや音楽が聴きたいようなのだ。10年足らずで鳥たちも音楽鑑賞することを覚えたらしい。

 

 

10/28

あまり書くことがないときに何を書くかは、随分前のこのブログに書いている。探すのが面倒なら、誰だか知らんが雑誌のエッセーとかを読めばそういうどうでもいいことで小銭稼いで食ってる物書きの悲哀を知ることになる。

とある国内線の機内で読んだあの有名ジジー作家の駄文にはガッカリさせられたもの。日本ならではの「創作に対する評価」が職業作家やメディアにまで影響していて、結局、簡単お手軽なTVだのの域を出れずにいるどころか劣化していると日々感ずる。

それは映画や音楽、舞台衣装などにも影響し、政治にも大いに影響していて、例えば決算は年一なのに四半期評価で右往左往する欧米経済から植え付けられた習慣が、人々を無為に急がせ過密化させ競い合わせ、その状態を俯瞰する時間さへ持たせない。

それを知らしめるべき職業作家がそういう状況へ追い込まれ価値観を見失っている時代は、この国ならではなのだと思う。

いまや総サラリーマン意識化した人民と短期利益追従の株主という二極化している。

読ませて伝えることより、買わせて換金する者ばかりだ。

 

この無関心な世の中に、永久トレンドとして政治(に伴う経済)ネットを通して持ち込み流行を生みそして「下から上げるのがその国の政治レベル(統計値に頼るならこの手法は格段に国レベル数値を変える)」だと明言したのはココでが、似非者ばかり増える。

 

 

10/29

今日は一日ごろごろしていよう。

親が死んでも食休み。私、まだこれがなかなかできないでいる。

真夏でも分厚い靴下を履いている女性をたまに見かける。これからの季節は辛いだろう。特に布団に入ってから爪先が温まるまで眠れないだろうし。

直ぐには効果はないだろうけど、足首を手で持ってぐるぐる回す。足の指でグーチョキパーを10回くらいする。グーの状態の足の指を手のひらでもう少し押す。パーの状態の足の指を手のひらでもう少し反らせる。

全部やっても5分くらい。毎日寝しなに続ける。

これだけ。

要は血行を良くすること。

私はこれで真冬でも足を布団から出して寝るほどだ。

連れ合いがいるならアレすることなんだがな。

眠る為になす行為。

 

 

10/30

 

 

実は連載の練習をしている。明日はこれがネタ。

 

 

 

 

 

10/31

創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らによって設計された(詳細は設計を参照)。

設計した内藤多仲

高さは333メートル[1]と広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した[4]。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である[5]

設計者 内藤多仲、日建設計
施工 竹中工務店

 

東電 資産

https://www.tepco.co.jp/corporateinfo/illustrated/accounting/balance-sheet-non-j.html

 

東電の資本の部が、2006年を境に別の科目に付け替わっている。

「資本金」が「株主資本金」になっている。

株主って誰のことだろう。

原発がなくなって不要になる何千トンもの高圧電線(銅)や山に突き刺さっている鉄塔は、総原価算入で消費者が大枚はたいて外国から資源を購入し加工したものだけど、単なる鉄くずとして叩き値でどこかに売られてしまうんだろうか。

東京タワーの鉄骨の目方は何トンくらいあるんだろう。

原発の核物質は会計帳簿的に、燃やすと増える特異な資産で減価しないとされるが、社会環境に放出される害毒は医療や保険などの福祉を侵食している。

そもそも循環し得る公的社会資本汚染に対価を支払わない。しかし対価を支払えば元に戻るというものではない。企業利益が生む不可逆な汚染が世界を覆っていて、そのことに企業は勿論、投資家も誰も誰も責任をとらない。

これを新自由主義に責任転嫁する資本主義下の経済学や、それを政治的批判に利用する左翼思想が、地球上で同時に放射線濃度を高めてきたが、あやふやな閾値(年間1ミリシーベルトなど)を両者ともに安全値と認めてしまっていることの問題性を訴える者は稀だ。(福島だけは原発事故以来年間20ミリシーベルトで20倍危険な地域だ)

 

11/1

スーパーやコンビニのレジ袋が有料化されて久しい。あまり気にする人は少ない。

有料化の目的はいったいなんだろうか?

ゴミの減量化やエコロジーが目的なら、何故ほとんどの食品メーカーが商品包装に使っているビニールやプラスチックも同時に規制をかけないのだろう。

こういうのを予算配分だけの政治家や能書きばかりの識者たちは言わない。

「企業にとって最も営利活動がしやすい国にします」これは先日亡くなった首相がやった経済政策だが、「人々の日々の暮らしなど知ったことかい!」そういう風にしか私には聞こえない。

消費者からみればレジ袋数円の話だが、売る方にとっては膨大なプラの量だし莫大な金額なのだけど、たった数枚数円と馬鹿にしている人たちは、売る側にはとても良い馬鹿なお客さんだと思われているに違いない。

千葉館山から横須賀の先三浦まで、東京湾の埋め立て地はゴミの地盤でできていてアチコチ陥没している。足元横浜沿岸も例外ではなく、そういう汚らしいデコボコが目立ち、ああ、いよいよ三流国に実質転落したなと悲しく実感するのだった。

新興国から来た人にはそのことは分かるはずもなく、むしろ彼らの国の地面のほうが健全なのではないのかと思う。

エコ目的が前提なら、

 

11/2

人の顔を絵に描くとき、クッキング番組大さじ小さじ風にかくならば、おでこ1/3で、目鼻口といった顔面積における造作モノは残りの下2/3に描くことに一応はなっている。

これをもっと緻密に研究したのがダヴィンチで、フラスコと試験管と顕微鏡を用意したのだがナンセンスの極みだ。

でも彼を画家でなく科学的空想家と捉えたらとんでもない天才なのだ。なのでモナ・リザをもう一度見たいとは思わないが、彼の残したメモ・ノートは何度でも観かえしたいとそう思う。

 

赤ちゃんは三等身、全身長を三等分したときにそのひとつが頭の長さというか大きさで、この比率はペットを飼うときに思わずムギュ!っとしたくなり、ペットショップ・ブリーダーの金儲けに引っかかる最大の理由なのである。

 

私の手足は何故か同じ腹から生まれた兄弟たちの、手足と胴体比率における分母と分子比率に於ける、いわゆる世間でいうところのカッコイイ比率が低い状況で生まれたか、あるいは育つ過程で後天的にそうなったのかは誰知らずだが、それにしても折れてまた思い出す腕の短さに、これが猫背の最たる原因でることを改めて知る今宵は半月なのである。

ゆで卵は半熟が美味しいと、もしハードボイルドな素浪人月影兵庫が言ったならば、あの月の影下弦の部分で猫に引っ掻かれているのかもしれない。

満月と新月は身体が重いはずだよおっかさん、でもそんなことに気づきも現代人はしない。

半月は筆を軽くするようだ。

 

 

11/3

いきなりだが、頭寒足熱というのは体の内側の話なのだろうと実感している。

 

体内温を高めに保つには運動が一番で、自分にとり正しい姿勢で歩くことが基本だ。自転車には乗れないので歩くのだが、移動範囲は縮まるが体は内側から温まる。意識して小一時間歩くだけだ。

体温を高めに保つことで免疫作用が高まるから病気に罹りにくくなる。

くだらんTVを観ている暇があったら歩くことで年寄りは医療費削減に貢献しつつ自分の健康を保てるというわけだ。

だからといって無理は禁物だが、いっとき言われていた接骨院や整形外科などでバーサン連中が社交場代わりにして医療費を無駄遣いしているという誹りもまのがれることになる。

代わりにデイサービスみたいだが、あれはあれで利用の仕方次第ということだろう。

民間でなく公的にやるべき事業だろうと私は思うが。

まぁ、いまの馬鹿政治家はそんなことを右から左までなんも考えておらんから、一度全とっかえするべきだが、足腰立たんチンポも立たんでは投票所にも行けんからな。

この国の老害問題は、高齢でチンポ立たん男性の人権意識の低さが大いに関係しているが、威張り腐ってるそういうジジーを野放しにしているババーにも責任の一端はある。

そういうジジババが自分の足元でなにもせずに福祉を叫ぶだけだから、若者たちが自公維の金券政治に流れてしまうのだろうけど、それを国内TVからしか情報を採ろうとしないから尚更TV新聞に騙される。悪循環だ。

世代間を繋ぐべきであるのは若者ではなく年寄り連中だが、それをしようとしない。「君たち若者もいずれ年老いたときに明らかに必要となる医療や福祉だと」と教えずに、使いたいだけ使い、彼ら若者から遠ざけているのはそいういう輩なのだ。

3割負担だとして、残りの7割を誰が負担しているのかを知った方がいい。

制度自体に問題が無いとは言えないが。

頭を覚ますにはTVを観ない事だ。

 

11/4

日本では他人に家族を紹介するときに例えば、「うちの愚息です・うちの愚妻です」とかいう。欧米では「私の自慢の息子です・私の最愛の妻です」などという。

言葉と文化は繋がっていて、それぞれ表現が違う。

もし私にそういった機会があれば、相手によって使い分ける。

心無い欧米人特にアメリカ人は彼らの文化を他の違う文化に押しつけようとする。最近は日本政府が家庭に(家庭はこうあるべきと)押しつけようとしている。どちらも大きなお世話なのだ。

しかし世界平和となれば話は別で、戦争を絶対にしないことであり、軍備増強ではない。なので平和憲法は押しつけとかそういう事で判断するのは間違いだ。

むしろ世界は国連憲章に9条を移植するべきなのである。

英語など外国語教育はそういったことに重点を置くべきで、殆ど海外に出ない、出ても団体パックツアーしかしないなら、英語授業で文化を学ぶ以外の要素は必要ない。現に殆どの日本人は話さないし話せない。

*超円安で、今後日本人は富裕層しか海外旅行はできない。

はい、今日の家庭科お料理の時間は、食材買い出しと食品表示を実際に商店街で学びまーす。とかの方が有意義だ。小中高。

 

 

11/5

今年、暑い時期に行った三度目の沖縄で、気づいたことがあった。

初めて行ったときは火災に遭う前の首里城近くの老舗ホテルに泊まったが、三度目の今回も老舗ホテルに泊まった。場所は県庁の西側の海よりだった。

辻という街で散歩していて気づいたことだが、あそこの小さな公園の惨憺たる状況を写真に収めた。いずれ書くこととして、川崎駅を挟んだ両側や横浜にも通ずる変遷というか現象だった。

とにかく横浜の花博には反対である。300万人くらい有権者がいる横浜で、実際投票する有権者は100万人くらいしかいない。37%くらいだ。

だとしたら住民投票を議会は妨害するべきでなく、住民投票で50万人の反対があれば中止するべきなのだ。市の権力より「意思ある市民」を優先するべきだろう。

 

11/6

夕べはスティーブ・マクイーン主演の「パピヨン(1974)」を観た。原タイトルは「Papillon」で発音を調べると「パピロン」だった。日本人は耳が悪いのかもしれない。

字幕と吹き替えが勝手に入れ替わるので、そのまま鑑賞した。当時の吹き替えの台詞回しとか声優の声の抑揚はいまと随分違う。声自体懐かしい声で、あのTV漫画のいじめっ子の声だったりあの時代劇の悪役の声などと、マクイーン本人の声と比較しながらの鑑賞は、そのミスマッチぶりが面白かった。ぶつ切りされたのか繋がりが分からない部分が何か所かある。

フランスの植民地みたいな南の国で、動物園でしか見た事のない動物が当時の町中の風景にちらっと映る。ワニや珍しい蝶がお金のために取引されている場面もあった。

ラストシーン、囚人仲間2人、それぞれの分かれ道。私ならどちらを選ぶだろう。公開当時に観たときといまでは若干違う。

 

11/8

今夜は満月で皆既月食が見られた。

月食中の月の色はもうなんとも言えない。442年前にあれを見た当時の人々は何を思っただろうか、不思議な現象だ。

 

11/10

骨を折ってしまってから5週間経った。ようやく新しい骨がもやもやっとレントゲン写真に写り、ギプスを新しく巻きなおしてもらった。

自転車に無性に乗りたくなったり、カメラに収めたい草花が撮れなかったりと不自由だが仕方がない。

引っ越してきて11年くらいで、当時は近所を裏道までくまなく歩いて覚えたが、その当時の事を思い出す。歩くことくらいしか運動ができないが、歩くことがどれだけ身体を温め血行をよくするか改めて実感している。

 

 

11/11

小学校に上がる前、小児喘息と全身かゆいかゆい(アトピーというらしい)で発作が出るとお尻に注射を打たれた。ばあちゃんの背に負ぶってもらって帰宅し布団に寝かされると、天井がぐるぐると回りだす。気持ちが悪くなって目を瞑っても瞼の裏側の模様がぐるぐる回って、もうどうしていいのかわからない。強い薬だった。

そのせいかどうなのか、幼いころから便秘する。

最近はアルコールを抜くとそうなる。それに加えここひと月は運動不足でそうなる。

長くなるので結論を書くと、どんな薬でも副作用があるということだ。

副作用の無い薬は無い。処方薬であっても市販薬であっても。

だから食い物には気を使った方が良いし、人工添加物(化学物質)にも気を使った方が良い。特に短い期間でぐんぐん身体が成長する子どもの時期には、食い物に対しての安全知識が必要だが、この国はそれをしない。

 

 

11/12

ゆっくり思考する世界が終わってから生まれた「戦争を知らない子供たち」の生きるスピードと四半期決算と日足と早漏という概念。

雪解け春に出現し、夏の終わりに枯れる「小川」という言葉の事実背景を知らない大人が語る空虚。

後進国で食糧難、ひもじさから開発されたインスタント麺を食う自称先進国民。

そしていまや隔離された宇宙船で食う宇宙食を善しとする動物園。

 

アメリカ予算で垂れ流された消火器の中身を濾せば資源(商品)となるものを。

属国予算と宗主国予算を合算して計算しようとしない経済学や政治学の不毛な権威化。

 

バイアグラと避妊薬の特許権で誤魔化される愛を前提とした文学と、愛だけの愛で生きられるという幻想を振りまくだけの芸能人。

人前に出てこない職業種に流れる血液、芸能、政治、1%の隠れ家はいずこ。

そして騙され憧れ続ける子供たち。

 

これで300ページくらい、ゆっくりかける環境をカネでしか得られない世の中にした文学者の「不毛な問い」学問。

人為にせよそうでない太陽系が繰り返す暖冷期にせよ、温暖化するのは、汚染土表面を人工的に覆う事をしない限り、作物収穫にとり朗報で、そのことは恐竜の生きていた白亜紀の地層などから明らかだ。当時の環境が人類に残したものが「順応力」と「地下資源とよばれるもの」だ。

そして当時生物は動物も植物も多種に反映した。肌の色などは関係なく。

これを「行き過ぎた科学」が何の根拠もなく否定しているのが欧米と中露の根源的資本主義的争点であり、歪曲された将来議論であることは確実だ。

そこまでマルクス思想は含有しているかが問題で私の疑問はそこにある。

資本主義にせよ社会共産主義にせよ、欧米の科学万能主義から生じる錬金術としての思想は結局地球規模での全生命に馴染まない。愛という言葉で言い表せない秩序的な無秩序を言い表せないことが明らかであるからだ。

 

その行き過ぎた科学万能主義が戦争追求であり、飽くことのない富(本来生きることに関係のない金や換金商品である)なのだから。

戦争を失うと行き所の無い人類の雄は、元々田における力であるから漢字では「男」と書く。そのとき「女」はいったい何者であったのか。女も男も生む「女」という生物は「男」にとり何であったのか。

戦争をこの世から根絶するためにかは、上記の議論に人類が真摯に立ち戻る必要はある。

カネは便利な交換「手段」であって「目的でない」

 

 

11/13

衣食住、日々の基本的な事柄や物事が目に見えて急速に劣化していると、家の外に出る度に感じる。こんな世界で懐にいくら札束があろうと無駄というものだ。

何故なんだろうと考える。

それでも懐に札束を詰め込むことに心血を注ぐ輩がいる。あるいはそういう輩を非難しながらも同じ事をしている自分に気づかない人も多いようだ。

彼らに共通しているのは「質より量」で、そもそも「質」を知らずに、知らないからこそなのか「質=値段」だと勘違いしている。値段が高い物が良い物だと思い込んでいる。

良い物を見極める目を養おうとしない。

そういう輩が増えればそれだけ質が低下するという基本的なことが分らない、見極める自分なりの秤を持っていないから、値段やブランドなどで選ぶことになる。

アジアの工場で作っているパリコレブランドに飛びつき、ボンネットの中身を見ずに知らずに高級スポーツカーを乗り回し、渋滞にはまる馬鹿馬鹿しさが分からない。

人間の質が劣化している。

 

大卒と中卒の違いについて、学びとはなにか

 

 

 

 

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