What is “whiteness”?

「白人とはなにか?」 ホワイトネス・スタディーズ入門  藤川隆男 編 刀水書房

白人研究に向かって  イントロダクション

世界から

この本のもとになっているのは、国立民族学博物館で三年間行われていた「世界における「白人」の構造化」という研究会です。かつて同じく民博の、都市先住民の研究会に招いていただいた松山先生が、私が勤務する大阪大学に非常勤でいらっしゃったのをきっかけに、二〇〇二年から研究会を始めることになりました。授業を終えて、私の研究室に訪ねてこられた松山先生に、白人が大きな研究テーマになっていることをお話ししたところ、いつのまにか研究会を主催することになっていました。

研究会の準備など、一方では、松山先生に完全におんぶに抱っこの状態でしたが、他方では、民博の研究会で「世界」を対象にするのは非常識だとか(研究の申請前に言っといてほしいわ)、「自己ちゅう」だとか(それはそうかも)松山先生に言われながら、なごやかに(ほんまかいな)研究会をやってきました。

民博におけるこれまでの共同研究は、地域や民族を特定して行うのが慣例で、大風呂敷を広げて「世界」を対象に、しかも白人という漠然としたものを研究するのは、常識はずれだったようです。民博の外から、人類学や民俗学とは関係のない人間が、しかも何の予備知識も持たずに共同研究を申請したからこそ通ったテーマだったみたいです。共同研究の申請の過程で、申請タイトルにある「世界」について、しつこく説明を求められ、「なんでそんなことを聞くの」と思っていたのですが、今は、対象に世界を取り上げた研究会はそれまでなかったということで、納得がいきました。松山先生がそれを教えてくれたのは、研究会が始まってから二年ほどしてからです。(遅すぎ)。

私は白人の研究で研究者としてのスタートを切りました。今から二五年前、評論を除けば日本ではまったく研究のなかった白豪主義を調べ始めたのが、研究者となるきっかけでした。当時、現在のようにアメリカを中心に白人(性)研究が流行していたとすれば、おそらく白人以外の研究をしていたでしょう。古いスタイルも嫌いですが、流行を追うのも好きではないからです。きっと自己ちゅうだからでしょう。私こそ元祖、セカチュウ、世界を自己中心的に研究する男です。この章では、白人と世界について語ります。
(どうですか、こんな始まり方は。口語で書くのも非常識、ですか。)

 

進む白人化

南アフリカではアパルトヘイトが崩壊し、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアなどの国々は、イギリス系の人々、とりわけワスプWASPと呼ばれる、白人でアングロ・サクソン系のプロテスタントが主導する社会から、多文化主義社会へと移行した。それにもかかわらず、いまさらなぜ白人という人種を研究する必要があるのか。また白人とはいったい何なのか。まずこれらの疑問に答えよう。

アメリカ合衆国では、公民権運動を契機に、ヨーロッパ系移民のエスニック・アイデンティティ意識は急速に高まった。しかし、一九九〇年代に入ると、郊外に居住する若いヨーロッパ系の人々の多くは、ポーランド系、イタリア系などの特殊なエスニック・アイデンティティではなく、ヨーロッパという漠然としたルーツと、白人としてのアイデンティティを感じるようになった。エスニシティの空洞化と白人化が再び起こりつつあるように見える。

二〇〇〇年のアメリカ合衆国のセンサスでは、自分を白人と考えているアメリカ人は四人に三人、複数の人種を挙げた人々を加えれば、合衆国の人口の七七パーセントが白人だということになる。これは合衆国が現在も白人の国であることを意味する。確かに、ラティーノと呼ばれるスペイン語を話す人々の増加で、合衆国の白人がマイノリティに転落するという警鐘が鳴らされている。センサスによれば、白人の割合は一九九〇年よりも減少した。しかし、このような傾向は今後も続くのだろうか。

次頁のグラフを見て頂きたい。グラフは、海外で生まれアメリカへ移民した人々の人種意識を示している。一九九〇年には移民が自分を白人だと考える割合は約半数に過ぎなかったのに対し、二〇〇〇年にはそれが三分の二に達している。特に注目すべきは、合衆国の白人に占める移民の割合が、五パーセントから九パーセントに増加したことである。ラティーノの人々が白人としてのアイデンティティを選択しつつある。今や多くの人口学者が、半世紀後もアメリカが白人国家であり続けることを予測している。

公民権運動やエスニック・グループの活発な権利獲得運動にもかかわらず、人種問題は現在も、そして将来も、きわめて重要な問題であり続けることは間違いない。しかも、再び新たな白人化が起こりつつある。このような状況を背景に、アメリカでは、白人研究が急激に拡大している。数年前ならば、その全体像の紹介も可能であったが、毎年倍増する研究のために、今やそれは不可能になったと言われるほどである。歴史学や文学、女性学や人種研究、社会学や法学、教育学や心理学など、多くの分野の研究者が、白人あるいは白人性研究の重要性を訴え、研究が急速に進展している。さらに、大学教育の一部としても取り入れられつつある。プリンストン大学がホワイトネス・スタディーズ(白人性研究)のコースをすでに開設している。

白人問題
人種問題と白人研究は、アメリカだけにとどまるものではない。イギリスで人種問題といえばおもにインド人の問題のことであり、フランスではアラブ人に関係する。最近のヨーロッパにおける調査では、自分自身を人種主義者だと考える人間が増加しており、同時に人種主義者であることへの罪悪感は後退している。ヨーロッパ各国における極右政党の台頭はその現われである。白人研究は、ヨーロッパやオーストラリア、ブラジルなどにも拡大している。ヨーロッパにおける研究の特徴は、植民地帝国を舞台に世界的な規模で白人性を考える点と、ヨーロッパ近代の根源的思想、啓蒙主義の内部に位置づけるところにある。これらの問題は、後ほど扱うことにする。

ところで、人種問題に注目するときに、アメリカ系アメリカ人、先住民、インド人、アラブ人の研究ではなくて、なぜ白人研究に注目があつまるのだろうか。日本には、在日韓国・朝鮮人問題と呼ばれるものがある。韓流ブームと北朝鮮の脅威の中で、日本の差別の構造は今も続いている。しかし、それは本当に在日韓国人や朝鮮人の問題なのであろうか。在日韓国・朝鮮人問題は、つまるところ日本人問題ではないか。白人研究には同じ発想がある。

アメリカには、黒人(アフリカ系アメリカ人)の研究、エスニック・グループの研究、アメリカ・インディアンの研究がこれまで無数にあった。オーストラリアやカナダでも先住民研究やエスニシティの研究は検索しきれないほどの数がある。その多くは人種関係の改善やマイノリティの地位改善のために行われてきた、いわば善意の研究である。しかし、これらに関わるすべての人種関係のもう一方の当事者、白人に対しては、研究のまなざしが向けられることはほとんどなかったのである。なんという不均衡な研究のあり方であろうか。なぜそのようなことが見過ごされていたのだろうか。

白人研究の立場からすれば、白人は普遍的な人間存在の象徴として、正常なもの、すべての人間の基準となるものとして存在したために、それ自体が問題化されることはなく、観察の対象となることもなく、みすごされてきたのである。白人は常に観察者の立場にあり、規範の設定者として、マイノリティ問題を探求した。だが、このようなやり方は、明らかに限界にきている。私も研究しているオーストラリアの先住民アボリジナルは、オーストラリアのみならず世界の学者によって観察され、研究されてきた。世界で最も多面的に研究された集団であろう。しかし、アボリジナルの生活状況は一向に改善しないし、人種関係も緊張を高めている。なぜなのか。学問は何をしてきたのか。

これまで無色透明な、普遍的存在として人種関係を決定していた白人という存在を、白人がアボリジナルを見てきたように、特殊な存在として研究の対象にしようとするのが白人研究だ。白人の人類学者がアボリジナルの世界を原始人の社会として研究したように、白人を同じ地平に引きずり出して、未開社会を見る目で白人の観察をする。啓蒙主義的な研究のあり方への根本的なアンチテーゼである。

マイノリティ集団について知ること、いろいろな民族の文化について知識を深めることは大切だ。ただ同時に、差別を生み、差異化の根源となっている集団、近代世界の規範の根源に深く関わっている白人について理解することも、必要不可欠である。白人についてわれわれは無知でありすぎた。

「白人」とは

社会を見渡すと、日本では「白人」という言葉が広く用いられており、白人というものの存在が自明のことであるかのようだ。私たちの多くは、かつて学校で五分類法などによって人種の分類を教えられてきた。白人あるいはコーカソイドは、身体的特徴に基づく人類のグループであった。新聞報道を見ると、アメリカで「黒人問題」が起これば、白人との対立あるいはその支配力が言及される。殖民地支配では白人の責任が問われている。

二〇〇三年六月の中旬に、名古屋で開かれたオーストラリア学会に出席する機会があった。そこでは、トヨタ、リンナイ、伊藤ハムなどのオーストラリア進出企業の現地責任者やトップが、現地展開の問題点などを語った。そのなかで白人という言葉がしばしば言及されるのに実際驚いた。このような問題にセンシティヴなオーストラリアでは、ほとんど聞くことができないような文脈で、白人という表現が自由に使われていたからだ。オーストラリアは官民一体となって多文化社会を標榜しているが、そこに進出する日本の企業人にとって、オーストラリアは今でも白人国家である。日本の企業人が時代遅れなのか、それとも、多文化主義が幻想なのか。あるいはこのような疑問を持つのが愚かなのか。

研究の分野に目を向けると、女性史研究は白人男性の支配権力の独占へのアンチテーゼとして確立された。ジェンダーの研究は社会的存在としての性の関係に注目したが、白人という存在への根本的な問いかけは十分に行われてこなかった。人種やエスニシティの研究は、白人の差別や人種意識を批判することで始まり、次いでマイノリティ集団の実態の研究に移り、さらにアイデンティティの問題へと研究の重心はシフトしたが、最初の批判の対象となった白人というものの検討はおざなりにされがちであった。

この本の目的は、私たちの日常の意識や思考の一部であり、多くの研究が当然の前提としている「白人」というものを俎上にのせ、検討することである。その検討のための第一の前提は、白人という存在を歴史的・社会的存在であるととらえることだ。現在、民族や国民、エスニック・グループなどに関して、多くの研究者が前提としているのと同じように、白人を社会関係のなかで歴史的に変化するものとして、理解するのである。

一般的に、人種は人類を身体的特徴で分類したものであり、民族は文化的な特徴で分類したものと言われる。この考え方によると、白人とは人種的分類であり、ある程度の客観的根拠で分類できる集団ということになる。おそらく、あるDNAを白人固有のものと特定し、そのDNAをもつ集団を白人とすれば、客観性は増すように見えよう。しかし、このように分類された白人と、特定の時代の、特定の地域で人々が白人だと認識する人間の集団はおそらく大きく異なっているだろう。

ダグ・ダニエルズは、カナダにおける白人認識について、おもしろい観察を行っている。ダニエルズは八年間にわたって、いろいろな国民が白人であるかどうかを学生に問い、毎年ほぼ同じ結果を得たという。学生たちはスペイン人やポルトガル人が白人であることに疑問を持ち、ギリシア人やイタリア人に対しては、いっそう強い疑いを示した。さらに、人類学の五分類法を最初に提唱したブルーメンバッハによれば、コーカソイド(白人)の発祥地であったイランについては、学生の一〇〇パーセントが白人であることを否定している。かつて合衆国では、少しでも黒人の血が流れている人間は、白人とはみなされなかった。確認できる先祖に一人でも黒人がいれば、その人は黒人とされたのである。名誉白人の例を出すまでもなく、白人とは身体的特徴によって決まるものではなく、地域や時代によって大きく変化するのである。

「白人性」とは

白人という存在が白人の身体と一致しないとなると、白人の属性、白人性を、白人の身体と切り離して考えることが可能になる。いや、考えなければならなくなる。かつて南アフリカで名誉白人となった日本人は、白人の身体は持たなかったが、白人性を有するものとして、白人の特権を享受したのである。このように、身体と切り離したとき、白人性は、あらゆる民族、人種、エスニック集団と、それに関わる個人と直接に関係するようになる。啓蒙主義的な「人間」、人種色盲*社会における「個人」、グローバリズムにおける標準的「人間存在」等、普遍的存在との関連や、黒人や先住民の白人性、中産階級女性の白人性、労働者階級の白人性など、特殊な存在を普遍的に規定する白人性の問題などの議論の土台が生まれるのだ。

白人性の代表的な研究者、ルース・フランケンバーグは、白人性を三つの次元でとらえている。第一に白人性は、構造的に優位な場、すなわち人種特権の場である。第二に、白人性は、世界観の拠って立つところである。そこから自分を、他者を、社会を眺める立場である。第三に、白人性は、一般的に無標で、名前を持たない、一連の文化的な実践である。見えない白人性の支配のもとでは、白人にとって、人種的不平等は、享受すべき現実ではあるが、認められることはなく、そこで生活する特権ではあるが、知られることはないのである。社会に対する見方や振る舞い方、構造的な社会的優位性などを属性とする白人性は、これらを身につけた非白人のグループ、例えば日系人や、従来は差別されていたグループ、例えばユダヤ人によっても、担われる場合があるのだ。もっと単純に言えば、ある面では、ユダヤ人も日本人も黒人も、白人になれるのである。

ところでフランケンバーグの白人性の概念は、日本人問題の解明のため、容易に日本人性に転用することができる。ためしに上の段落で、白人性を日本人性に、人種をお民族に、日系人を在日朝鮮人、ユダヤ人を在日中国人に代えて、読み替えれば、その意味が理解できよう。普遍的な規範による、構造的な差別と差別の解明に彼女の概念は有効である。フランケンバーグの適応力のある白人性の概念は、しかしながら、それがゆえに欠点もかかえている。白人と白人性は、普遍的な存在であると同時に、地域や時代によって特殊な形態をとるからである。

この本では、アメリカを中心に発達してきた白人性研究を紹介するだけでなく、白人と白人性を歴史的・構造的に提示しようと考えている。

 

第Ⅱ部では、まずヨーロッパにおける白色人種の形成(構築)を、その根幹となったフランスとドイツの例を通してみる。続いて、アメリカ、カナダ、オーストラリア、南アフリカの白人の形成とその変遷を見ることで、白人世界、ヨーロッパとその定住殖民地を起源とする国々における、歴史的存在としての白人のあり方を、可能な限り示したいと思う。ただし、人種共和国と呼ばれたが、周回遅れのアファーマティブ・アクション(差別を受けている集団への優遇措置)に最近乗り出しているブラジルの例を挙げられなかったのは、残念である。

第Ⅲ部では、非白人が見た白人象、非白人世界における白人性の問題を追求する。オーストラリア先住民の見た白人、日本人にとっての白人性、サモアにおける白人、宣教師と現地の人々の関係を規定した白人性、逆オリエンタリズムとも言うべきアラブにとっての白人性などを扱うことで、アメリカ・ヨーロッパを中心とした白人研究(白人研究においても続く白人の中核性)に対するアンチテーゼにしたい。

第Ⅳ部では、白人という身体を離れて拡散する白人性を対象として論じる。急速に世界的な支配力を増すテレビ文化における白人性、曲がり角に立つ多文化主義と白人性、バース・コントロールと白人性、戦争の記憶と白人性、混血問題における白人性など、現代世界に広がる普遍的な文化を見るなかで、白人性の意味を考えるヒントを与えるセクションである。

白人や白人性の理解の仕方には、さまざまなあり方がある。どれを正しいかを決める力も、判断する能力も私にはない。おもに白人性という観点から社会や歴史を分析することが常に正しいとも思わない。しかし、白人性という分析視角は、階級やジェンダー、エスニシティや人種、帝国や国民国家を検討するときに、なくてはならない道具の一種であることだけは確かである。ただし、白人と白人性の研究は、多様な見方を尊重し、見えない構造的な差異の形成と権力支配に対抗するためにある。私はそう思う。

 


 

無標・有標  https://www.nihongo-appliedlinguistics.net/wp/archives/8585

十字架と十字架無しとか、仏像とかインド象とか関係あるんだろうか?