2023年12月12日
人は変わる
以前、こんなことを書いた。その時に思った正直な気持ちだ。
オシャベリおばさんの心の内
2016-10-25だから、このときからもう7年以上たった。
夏の終わりころだったか、歯の治療に行った帰りの電車のなかでこんなことがあった。
私は車両と車両の連結のすぐ近くの座席、そうあの三人座席「優先席」に座って車窓から外を眺めていた。やわらかい物を食べてくださいねと医師に言われていた。晩ごはんのおかずは何にしようか、スーパーで何を買おうか、冷蔵庫に何が残っていたっけ、そもそも俺、何が食いたいんだろう、デパ地下で下見していくか、それとも寄り道して・・・
と、そこで肉声の車内アナウンスが聞こえてくるではないか。スピーカーを通していないその肉声は、だんだんと近づいてくる。
隣の車両から現われたその青年は指差呼称、身振り手振りで「つぎは**駅~ドコソコへお越しの方はお降りください・・・おわすれものおとしものございませんようきをつけて・・・」
それはもうプロといっていいほどのイイカンジで、私は思わず心のなかで拍手喝采してしまった。とても詳しい、ディテールまでリアル!発声は腹式呼吸で声も悪くない。TV歌合戦の審査員みたくなってきた。できればアンコールを所望したいくらいだったが、周囲を見渡すと・・・。
例の、あの特有の、重苦しい雰囲気が漂っている。この数分間のできごとをもし絵画にするとしたら、シュール・リアリズム画家であるダリの出番ということになりそうだ。ギャップが甚だしい。
朝の殺人満員電車時間帯とは、トキとバアイとマアイが違う。
電鉄で働く駅員さんだって、こんなにつぶさに研究される対象になっているのなら、ちょっと照れるがウレシハズカシ的ではあろうが、お仕事の甲斐があるってものだろう。こんなに電車好きな人は有り難い存在じゃないのか。もしかしたらそうではなく、単に迷惑だと思うのだろうか。自分にとって迷惑なのだろうか、他のお客様にとり迷惑と”思う”のだろうか。
本日この車両の運転手は君で車掌はヤツでアナウンスはjannmu。ちょっと言葉つきが不良っぽいけど、タマニャーそういうのも良いというお客様のご要望に勝手にお答えしつつ、うるさくない程度にアナウンスするんでヨロシクネ~。みたいな個性的アナウンスがあってもいいのではないかとも思う。そういう駅員に電車マニアのおっかけがついたりしたらもう、TVなんかいらない。
車内がピリピリと静電気が立つような雰囲気と、和やかな雰囲気とどちらを望むだろうか。そして誰も排除せずに。
オシャベリおばさんもこの彼も、誰かに喧嘩腰で噛り付いたりしない。そのことはその場の誰もが理解し感じているが、異質な人が突然現れたときに、どうしたらいいのか分からない。白い目で見たり無視したりする。ノリが悪いしユーモアがない。
「許容」という言葉が脳裏に浮かぶ。
電車やバスのなかで携帯電話で誰かと話をすることをイケナイ事としたのは、誰がいつごろからなんだろうか。目的は何なのだろうか。
私は遠出をするときくらいしか携帯電話を持たないが、車内で携帯電話をマナーモードにしたり通話をお控えする必要がどこにあるんだろうと疑問に思っているし、最近ではその為に持っているのだから通話してもいいのではないかとも思っている。
賛否両論あると思うが、黙っていてはこれまでのまま。
これらのことは、障がい者と呼ばれる人々(実は私も手帳を持っている)をこの社会の精神的隔離から解き放てるかどうかに関係しているし、この関係に無関係な人は地球上に存在しない。白い目を向けるべきはあるが、俺たち同士じゃない。
そして人は変わる