Random ランダム

高速道路の両側に規則的に道路灯が並んでいる。

自動車を一定の速度で走らせていると、規則的なリズムで目の上をその光が通り過ぎてはまた現われ通り過ぎる。

電車の車窓からも同じように、一定の間隔で通り過ぎる人工的な造作物がある。

そういうリズムも結構好きだ。

絵画にランダムに描かれた花や人は、画家の恣意が入り込んでいるから純粋な意味でランダムと言えるだろうか。

 

「ウィキペディアによれば・・・

ランダム(英語: Random)とは、事象の発生に法則性(規則性)がなく、予測が不可能な状態である。 ランダムネス(英語: randomness)、無作為性(むさくいせい)ともいう。」

 

規則性を敢えて恣意的に無作為を変則的にして描いたらそれをランダムと呼べるだろうか。

絵画には構図とか配置などにも描く人の個性が出る。その対象の色づかいや大きさや配置から、リズムを感じられる。

画家本人がそれを意識して描いていなくてもそれは絵画に現われる。子供たちが無心に描く絵はまさに「無意識のリズム」だろうと思う。

それを感じ取るのは観る者のセンスでしかない。観る者、受け手としてのセンスは、その人にセンサーが付いているかどうかではなく、沢山の絵を見ることによって誰でも磨くことができる。誰もがそのセンサーを持っているのに磨かないから、自分の持っているそのセンスに気がつかないだけなのだ。

一枚一枚の絵画と丁寧に対話していると、ある日突然、いつの間にか、それまで感じていなかったものを感じている自分に気づくときがくる。

言葉という記号では伝えきれないことがある。絵という記号からだけ伝わるそれを感じ取ることができるようになる。

 

私の一番好きな絵は、東山魁夷の「響き」という絵。

絵のタイトルや作家の能書きを一切無視して真っ先にこの絵と対話したときに、振動を感じたのをおぼえている。

美術館の壁に飾られたその大きな絵からは、永遠にあの振動が発せられ続けることだろう。言い換えるなら、この作家は山の振動をこの一服の絵に閉じ込めたわけで、それはアートとか表現を超えた「術」というものだろう。

魔術とか忍術とか術という言葉はいろいろあるが、「芸術」と呼ぶに相応しい。

その「響き」振動を言葉で表現することはできない。描かれた実際の山の斜面がなくなっても、感性を持つ者が居る限り、この絵に閉じ込められた山の森はずっと響き続けることだろう。

画家が恣意的に絵画に閉じ込めたランダム、画家が意識的に描く無意識と子供たちが無意識に描く無邪気とでは、同じようで違う。絵画との対話は、その作者の心の中に入り込んでいく。病を治すシャーマン・イタコのような感覚。癒されるのは自分自身なのだ。

 

 

第1回かながわともいきアート展~生きること、表現すること~

2024年11月15日(金)~11月24日(日)

11:00-20:00 入場無料

 

言葉では語り得ないものごとがある。

言葉では語り得ないものごとを、無理やりにでも語り得ると勘違いしている人びとがいる。彼らが語れないことがあると認めることが表現の理解を深めることになる。

そこに現代人の「癒し」があるはずだ。

 

 

 

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