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2016/07/13

殴り書き

「見ざる聞かざる言わざる」を現代的に考察する

 

三匹のそれぞれの猿が表現しているひとつの感覚以外の感覚を研ぎ澄ます行為として捉える。

目に手を当てて見えない猿は、耳や口(言語・音声や味覚ほか)を目に手を当てることにより研ぎ澄ます、というように。

現代人の持つ大脳皮質が空なのは何故なのか。入れる情報がないのに発達するがずがない。元々は情報(能力)が詰まっていた、詰めることにより発達したと考えるのが当然である。

 

「過敏」な聴覚や嗅覚臭覚などは、現代医学に於いて「病とか過敏症」とされてしまうが、これこそが人間の能力の過小評価である。

野鳥とも魚類とも樹木とでさえ、言葉でないコミュニケーションが取れる。そうできないのは「過小評価」故の「能力退化(大脳皮質空洞化)もしくは古くからの脳劣化」である。

感覚とは情報察知能力で、いわゆる第六感とは五感の総合力だが、第六感という五感以外の感覚が独立して存在しているわけではない。五感のバランスが個人ごとに異なることは、生命としての基本だが、それを否定しようとするシステムを「独裁」とか「覇権主義」あるいは「封建主義」などと呼ぶ。情報察知能力の”違い”は互いに認め合い高め合うものだが、社会が個人に提供するべき情報に格差をつけているのが、情報歪曲社会である。

 

他の動物(生命)と違い、人間は言葉と歴史から学び取ったルールを持つ。それは争いを回避するツールなのだが、情報の歪曲により、あるいは便利追求によって「逆説的な意図により浸食されつつある」ことを覆い隠そうとするものがある。

 

意図的につけられた情報格差による富の集中の、いわゆる1%と99%という曖昧な分け隔てはいずれ全く意味をなさなくなるだろう。

そういう判断基準は意味を失うなってしまうだろう。

同時にまた、富によっては人間の能力が維持発展することが不可能だということにも気づくときが来るだろう。(富とは所詮、地球から人類が必要以上に搾取したものに過ぎないのだから、地球からの搾取を止めない限り人類は破滅に向かうのは当たり前のことなのだ)

 

いわゆる動物的な力と人間の能力(大脳皮質に詰め込まれるべき)は、形式的にではあれ切り離して考えることが、実は人間的能力の基礎とも言えまいか。

 

セーフティーネット(最底辺)の教育や衣食住環境レベルが、その社会の先進度であるが、言い換えると人類の進化の度合いでもある。

 

現代世界はこの当然の時間の流れに逆行しようとしているが、本来上記の考え方から発展してきたルールを、情報により歪曲したところに問題の本質原因があると考える。

 

いわゆる99%と呼ばれる人々に圧倒的に不足しているのは、どのような環境下であれ「観察、考察する行為」である。自然からも人工物からでもこの観察考察行為により学ぶことができ、考え独自の意見を持つことができる。そしてこの行為はすなわち五感を研ぎ澄ます行為に他ならない。

このことに気づき実行する者とそうでない者とに今後分かれていくというのは、避けられない事実であることは、既に歴史が物語っている。

それでもセーフティーネットの在り方によって、違いや異なるものを埋めることができるのも事実である。

 

つまり、「社会の底上げ」という考え方に立脚することが人類の全てである。

 

*言葉は所詮抽象表現でしかない。

*盲目の人に色を説明するのは無理だが、どうやって説明するかばかりを考えいるのが平等思考だと勘違いしてはいけない。

 

 

 

 

 

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